イザヤ 四四・二一~二三
使徒言行録二〇・二八~三二
本日の使徒信条の箇所は「聖なる公同の教会をを信ず」です。父なる神を信ず、御子イエス・キリストを信ず、そして聖霊を信ず。そして神なる聖霊を信ずるとは、教会を信じるということ、教会を信じるのは聖霊の導きを受けて出来るのだ、と使徒信条は告げているようです。
教会を信じる、思えば不思議な言葉です。現実にここに教会があることは、敢えて信じなくてもはっきり分かるではないか、と思えるからです。でもそうではありません。教会は信じるものです。教会は見える事実として人間の集まりです。それ故に、教会にゴタゴタが起こることがあります。その様なときに、教会は聖なるものだ、と信じます。ここに集まっている人間自身は、自分のことも相手のことも「聖なる者です」、とは言えません。時に喧嘩もし、心も通じ合わなくなる人間同士が、それでも、神様に贖われて神のものとされている。「思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、あなたは私の僕。私はあなたを形造り、私の僕とした。イスラエルよ、私を忘れてはならない。私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。私に立ち帰れ、私はあなたを贖った」(イザヤ四四・二一~二二)。ヤコブとイスラエルの所に教会と入れ替えても良い。パウロも、教会のことをこう語ります。「神が御子の血によって御自分のものとされた神の教会」(使徒言行録二〇・二八)。そしてエフェソの教会を旅立つにあたり長老たちに言います。 「そして今、神とその恵みの言葉にあなた方を委ねます。この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なる者とされた全ての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです」(使徒言行録二〇・三二)。長老たちはこう思ったに違いない。パウロ先生が去られた後、自分たちに委ねられた恵みの言葉をしっかりと語らなくてはと緊張していた長老たちにとって、自分たちは恵みの言葉に委ねられて恵みを受け継がせてもらえるのだ、というパウロのこの言葉は慰めだ、と。教会もそこに集う私たちも、聖なるものであるのは、自分自身の故ではなく、神様が造り、呼び集めて下さって、恵みを受け継ぐ者として、聖霊なる神様が立ち上げて下さったから、ということです。
教会を信じる。使徒信条は教会を公同の教会と信じると告げています。いつの時代でもどの場所でも、教会にはキリストがおられるキリストの体。それを信じる。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です(エフェソ一・二三)。河内長野教会もキリストが満ちておられる場である、と信じる。 (因みに、ニケア信条は「聖なる公同の」教会に加えて「一つの使徒的な」教会と告げています。それは時代の変遷の中で、教会が一つでなくなってきた、使徒的でなくなってきた、そうやって教会でなくなってきたことを踏まえてのことでしょう。信条は教会を使徒的な教会にしてくれます。「一つの、聖なる、公同の、使徒的」。この四つが教会が教会であることのしるしとされています)。
教会がなくても聖書だけあれば、神様のこともキリスト教のことも分かる、と思われるかも知れません。けれども、聖書は読む書物であるだけでなく、語られるもの、語りかけてくるものです。それは教会の礼拝で経験します。またキリストについて知識で知ればそれで良いのではなく、礼拝されるお方です。これはやはり教会の礼拝で経験できることです。そしてキリストを信じる信仰が与えられ養われるのは、自分が教会に招かれて礼拝をささげるようになったからです。ですから人間的には何があっても、教会の礼拝から離れてはいけません。それは不思議な所です。教会がなかったら、キリストを信じる自分はないでしょうね。キリストが満ちあふれている場、この自分にキリストが語りかけ、聖霊が信仰を与える場です。