イザヤ書五三・一~一二
ヨハネ 一三・六~八
それは、過越の前の夕食の時でした。突然、主イエスが席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。同席していた弟子たちは、一体何事か、主イエスは何を為さろうとしておられるのか、あっけに取られるばかりです。すると主イエスは、たらいに水を汲んで弟子の足を洗い始められました。静寂の内に、足を洗う水の音だけが響きます。最初の弟子は何が何だか分からないままに、固唾を飲んで、ただ足を差し出し為されるがままに洗って戴きます。足を洗われる受け身の経験です。一人目、二人目、主イエスが順々に弟子たちの前に跪くようにして足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭いていかれます。
何人目だったか、シモン・ペトロの前に主イエスが来られました。ペトロはさすがに、そのまま足を差し出す訳にはいかない、と思いました。足を洗うのは奴隷がすること、まして主であられるイエス様が弟子の足を洗うなんて、そのようなことさせる訳にはいかない、とペトロは足を引っ込めたまま、静寂を破って言葉を発します。 「主よ、あなたが! 私の足を洗って下さるのですか!」。主イエスは応えます。「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。ペトロは全然分かりません。分からないままに「私の足など決して洗わないで下さい」。私の方こそ、あなた様の御足を洗わねばならないのにという思いでしょう。ペトロは主イエスの言われることが分かりません。が、それでも自分なりに分かったつもりです。そうか、主であり教師であられるお方がこうやって身を低くして仕えて下さる。我々弟子も、とことん身を低くして主イエスに仕えていこう。それで、この後イスカリオテのユダが出て行ってしまってからこう語ります「あなたのためなら命を捨てます!」(ヨハネ一三・三七)。これこそ、身を低くして、いや、身を捨ててまでして、主にお仕えすることだ! 本気で申し出たに違いありません。
主エスはこのようなペトロを見ながら、答えられます。「私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私のことを知らないと言うだろう」。
ペトロはやはり全然分かっていないのです。話を戻しますが、主イエスは言われました。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」(ヨハネ一三・八)。ここで注意して主イエスのお言葉に耳を傾けたい。主イエスは「私が『あなた』を洗わないなら」と言われました。ペトロは、こう言っていました。「主よ、あなたが!『私の足』を洗って下さるのですか。『私の足』など決して洗わないで下さい」。ペトロは足を洗う奴隷の業、それを主イエスが身を低くして洗って下さる、いわば道徳的な謙虚な行為に思いを向けています。よし、弟子として同じように身を低くして頑張ろう。そして「あなたのためなら命を捨てます」とまで豪語してしまうそれは、ペトロの真面目な本気の思いであったに違いないのですが、それはペトロも気付かない内に自分も主イエスと同じく、救う側に立つことでした。だから主イエスは「私のために命を捨てると言うのか」。それは、主イエスのためにと言いつつ、その実、自分が救い主の側に立っていくことです。自分が救い主になって、真の救い主、主イエス・キリストが不要になり、主イエス・キリストから離れていくことでしかありません。
「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」(ヨハネ一三・八)と主イエスはお語りになりました。今一度、注意して主イエスのお言葉に耳を傾けたい。「私があなたを洗わないなら、『私はあなたと』何の関わりもないことになる」ではありません。キリストは十字架にかかる救い主として私たちと関わらなくなったり私たちから離れたりすることはありません。そうではなくて、私たちの方が、関わらなくなり離れてしまう。救い主を必要としなくなっている時です。私たちは、日々救われなければならない、救われる側にいます。
だから、主イエスが足を洗って下さることを弟子たちに経験させて下さった。足を洗って戴く受け身の経験です。恵みは受けるもの。ペトロは、そのことを後になって分かるようになります。
「取りなさい。これは私の体である」(マルコ一四・二二)。差し出されるままに信仰を以て受けます