イザヤ三八・一六~一七
マルコ 八・三一~三三
今日の使徒信条は「死にて葬られ」の箇所です。 天におられた神の御子はクリスマスにこの世においでになり、私たちと同じ人間となられました。同じ人間になられて、死んで葬られる所までさえ同じになって下さいました。 でも異なる点もあります。主イエス御自身がこうお語りになりました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ一二・二四)。死を、多くの実を結ぶ死にして下さいました。これが今日の主題です。 これはもちろん、主イエス御自身の死のことです。私たち人間の罪を贖う死であり、「我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)という罪の裁きとしての死でありました。私たちだって、キリスト抜きには、私たちの死も神様に見捨てられる死になるのでしょう。でもそれに耐えられるようには人間は造られていません。私たち人間は、どのような困難にぶち当たっても本当に絶望することは出来ません。どこかで神様だけは見捨てないと思って生きているのではないでしょうか。だから、キリストが私たちの代わりに見捨てられて下さった、と信仰において言えます。そしてキリストの死は御自身の復活に至る死でありました。これも、私たちはいくら死んでも自分から復活することは出来ません。 そのようにキリストの死は多くの実を結んでいます。このようにキリストの死は私たち人間がいくら死んでも出来ない、私たちと異なる死です。 私たちと同じになって下さった神の御子の死は、私たちに対して多くの実を結んでいます。私たちはいずれ死を迎えますが、死んでも、私たちが最早見捨てられることがないようにして下さいました。「苦難の僕の詩」が語りますように、彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った(イザヤ五三・一一)というように、私たちはキリストの苦しみの実りになっています。あるいはハイデルベルグ信仰問答の言い方で言えば 「私たちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入り口なのです」(答四二)。天国の希望を持ちながら死ぬことが出来る者とされた私たちです。このように、キリストという一粒の麦が死んで、私たちにも多くの実を結んでいる訳です。
ここで、イスラエルの王ヒゼキヤのことを紹介したいと思います。彼は紀元前七一五年、二十五歳で王なり、在位期間は二十九年間でしたが、ある時、死ぬほどの病になったけれども神様の憐れみの故に奇跡的に回復し、もう十五年生きることが出来た人です。病気になったのはおよそ四十歳の頃です。その時それまでの人生を振り返っての思いをイザヤ書が記しています。三八章一〇節以下の所に、これまでの自分の人生を振り返り、私は心に苦痛を抱きながら、全ての年月をあえぎ行かねばならないのか(一五節)と語ります。そして一六節から、病から回復してもらっての、これからのことについて語ります。 主が近くにいて下されば、人々は生き続けます。私の霊も絶えず生かして下さい。私を健やかにし、私を生かして下さい。見よ、私の受けた苦痛は、平和のために他ならない。あなたは私の魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにして下さった。あなたは私の罪を全て、あなたの後ろに投げ捨てて下さった。彼はキリストの復活を知りませんから死後の希望はないようです。陰府があなたに感謝することはなく、死があなたを賛美することはないので、墓に下る者は、あなたのまことを期待することが出来ない。 死んで墓に葬られた者は神様のまことを期待することが出来ない……。これは死んだ者の立場に立ったらということからの言葉ですが、地上にいて親しい者を亡くした者の気持ちを表しているかもしれません。遺族はどのような思いになるのか。ある本で読んだのですが、信仰者である方が息子を亡くされた。その時、怒りに任せて詠んだという歌が載っていました(「証し」最相葉月。角川書店)。
命より
大切なもの
あるなんて
私の前で
言ってみろ
イエス
何をどう言われたって、ただいなくなっちゃっただけじゃないか。 これを読んで思います。これが主イエスが死んで葬られた土曜日の時間だ。戦争で兵士が死んでいく。共同墓地の前で父親、「有望な若者が次々と亡くなっていく」。何という虚無感。民間人も同じ。戦争であると否を問わず、人が死んでいく。人は、本人も遺族も土曜日を通過せねばならない。 ヒゼキヤ王は死にたくなかった。それで地上で命ある者、命ある者のみが、今日の、私のようにあなたに感謝し、父は子にあなたのまことを知らせるのです。主よ、あなたは私を救って下さった。私たちは命のある限り主の神殿で、私の音楽を共に奏でるでしょう(三八・一九~)。彼は命長らえて、礼拝をささげる喜びを語っています。礼拝をささげることが出来る。それが、死に直面して、そこから回復して改めて思ったことだった。
そして改めて感謝したのは、あなたは私の罪を全て、あなたの後ろに投げ捨てて下さった(三八・一七)ということです。 神様は私たちの罪をご自身の後ろに投げ捨てられました。同じ投げ捨てるのでも、私たちが自分の罪を自分の後ろに投げ捨てるだけだったらどうでしょう。先日の祈祷会でこのことについて話題が及んだとき、ある方がこう言われました。「自分の後ろだったらまた出てきますよね」。本当にそうだと思います。私たちは自分で自分の罪を処理しきれない。同じ罪を犯さないようにと願いますが繰り返してしまう。本当にそうだと思います。 今日は新約聖書、主イエスの受難予告の所を選びました。ペトロが「あなたはメシアです」と信仰告白した後に、主イエスが御自身の受難を予告されました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ八・三一)。殺されてしまう。これを聞いたペトロは、主イエスを脇へお連れして、いさめ始めた。そんなことがあってはなりません。変なこと考えないで下さい……って。そうしましたら、主イエスがペトロをお叱りになります。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。人間のこととありますが、これは複数形です。人間たちのことを思っている。主イエスのことを思ってではなさそうです。本当に主イエスのことを心配してというより、自分のご主人様が亡くなられては困ると、自分たちのことを思ったということでしょうか。あるいは、そもそも人間は、死について思いたくない。私たちも死をタブー視したり、葬儀でも棺にお花でもって死を美しく飾って、死を直視しようとしない所がある。 いずれにせよ、ここでペトロは神様の御心を尋ね求めない、自分たちのことしか思わない。人間の心です。自分中心の罪の思いです。それはサタンの思いです。人間の他にサタンがいると言うより、ペトロという人間がサタン化してしまう。人間の罪深さをサタンのせいには出来ない。そのようなペトロに向かって主イエスは叱られた。「サタン、引き下がれ」。
日本語には何故か訳されないのですが、この時の主イエスのお言葉にはこうあります。「サタン、私の後ろに引き下がれ」。ちゃんと主イエスが処理して下さる。私の後ろにと、主イエスがちゃんと負って下さる。これが主イエスの十字架の死の意味です。私たち人間の後ろに引き下がるだけだったら、また自分の前に出てきてしまいます。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。私たちは多くの実を結ぶキリストの恵みを知っています。復活の日曜日を知っています。だから教会はこの日曜日に礼拝をささげます。 もちろん土曜日の悲しみと親しい者を亡くした喪失感を遺族は知っています。その時、私たちの信仰は無意味に感じられてしまうのかも知れません。「あの人は居なくなっちゃった。それだけだ」。教会は復活を語る。でも結局、私たちはこの日曜日の主イエスからの光の中に身を置くしかないし、置いても構わない。 主イエスは死んで葬られました。ご復活の前に。金曜日に十字架にかかり、土曜日には一日中この地上からいなくなってしまわれました。その土曜日の主イエスが、いなくなってしまったあの人と共にいて下さいます。私たちはそう信じて、主イエスの御手にあの人のこと、そうして喪失の中にある自分を委ねます。そう信じて委ねます。土曜日にあっても、日曜日の幻を見るようにと招かれています。