日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年12月25日 説教:森田恭一郎牧師

「御使いの話した通りのご降誕」

ルカ二・一五~二〇

クリスマスおめでとうございます。主のご降誕を、旧約の時代にイザヤが預言しました。それ故、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ(イザヤ七・一四)。そして、クリスマスの晩、この預言の通りに実現成就したのでした。それが神が我らと共にいますインマヌエルのしるしとしての主イエス・キリストのご降誕です。このご降誕は、地上の歴史の中に起こった出来事です。そしてこの出来事は、言葉と結びついておりました。今日は、出来事と言葉の結びつきの意味について思いを深めます。

 

クリスマスの出来事は、あらかじめ預言者たちの言葉と結びついていました。そして旧約の民は預言の言葉通りに救い主の到来を待望しました。「どうか、天を裂いて降って下さい」(イザヤ六三・一九)。マリヤにも前もって天使から語りかけられます。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを戴いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(ルカ二・二八~)。ヨセフにも同様に夢でお告げを受けます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(マタイ一・二〇~)。何故、旧約の民は信じて救い主の到来を待望し、マリアもヨセフも救い主のご降誕を受け入れることが出来たのでしょうか。それはみ言葉が彼らの中で、ご降誕の出来事と結びついたからです。

そしてあのクリスマスの晩、羊飼いたちにも天使からの言葉がありました。 「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ二・九~)。彼らはその後すぐに「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせて下さった出来事を見ようではないか」と話し合って、わざわざベツレヘムの街中まで出掛けて行きます。それが出来たのは御子のご降誕を受けとめたからではありませんか。何故、羊飼いたちは救い主のご降誕の出来事を受け入れることが出来たのでしょうか。それはご降誕を告げるみ言葉が彼らの中でご降誕の出来事と結びついたからです。

 

言葉が出来事と結びつく。主イエスは弟子たちに、これが結びつくようにとお心を砕いておられます。「私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(ヨハネ一四・一一)。主イエスが天から降ってこられた神の御子であられる、主イエスと父なる神が一体であると語る主イエスのお言葉を信じられない弟子たちに、私の言葉を信じられないなら、私の行う業を以て私を信じなさいと仰います。

平たく言えば、いわゆる有言実行ということですが、例えば牧師が「主イエスを信じましょう」と言って、牧師が本当に信じていると思えたら、牧師の言う言葉は本当だと思えるし、それを語る牧師を信頼することも出来る。学校の教師も同じです。「友だちを大事にしましょう」と語る教師が、実際に生徒を大事にしていると生徒が体験してそう思えたら、教師の言うことは本当だと思えるし教師を信頼することにもなります。「神様があなたを愛しています」という教師の言葉は、教師が生徒を大事にしてくれるという出来事と結びついたときに、生徒は教師の言うことを受け入れられるし、教師を信頼出来る。キリスト教教育は聖書の勉強だけでは足りない。教師が聖書の語る恵みに生きているときに、聖書は真理になる、と言えるでしょう。

主イエスは、主イエスを信じようとしないユダヤ人たちに対しても、お心を砕いておられます。こう仰いました。「『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。もし私が父の御業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい」(ヨハネ一〇・三六~)。 「私は神の子である」という言葉と、主イエスの業が結びついた時、主イエスの言葉を信じることが出来るし、それを語られた主イエスを信頼することが出来る。

 

羊飼いたちの話に戻ります。羊飼いたちは乳飲み子を探し当てると、彼らはどうなりましたか。二つあります。一つ目は、その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた(ルカ二・一七)。布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子という出来事=その光景と、天使が話してくれた言葉が結びついている、ということを人々に知らせた訳です。人々は、ここに乳飲み子が布にくるまって飼い葉桶に寝ている光景を見ても、それだけなら、貧しい夫婦に赤ちゃんが生まれた、とだけしか理解しないでしょう。でもそこに羊飼いの知らせてくれた天使の言葉が結びつくと、この乳飲み子は救い主なのだと分かる。人々にとっては、順序で言うと、目の前に見ている乳飲み子の出来事が先にあって、それを言葉によって出来事の意味を理解する訳です。

羊飼いたちの姿の二つ目は、羊飼いたちは、見聞きしたことが全て天使の話した通りだったので神を崇め、賛美しながら帰って行った(ルカ二・二〇)。神を崇めて乳飲み子が救い主であることを彼ら自身が信じ、賛美する者になっていきました。見聞きした乳飲み子の光景と天使の言葉が結びついたからです。羊飼いたちにとっては、順序で言いますと、天使の話した言葉が先にあって、それを乳飲み子の出来事によってあの言葉は本当だと受けとめる訳です。

 

私たちの順序は、人々のケースなのか羊飼いのケースなのか。人々のケースに当てはめるなら、最初にある人生経験があって、その後に聖書の言葉に触れる。その時にあの経験はこういうことだったのかと聖書の言葉に照らして、経験の出来事の意味を理解する。羊飼いのケースに当てはめるなら、初めに聖書の言葉を聞いていた人が、後になって何らかの経験をして、聖書の言葉の通りだと、聖書の言葉は本当だと受けとめる。どちらにせよ、聖書の言葉と人生経験の出来事が結びついたときに、真理を経験することになります。

 

さて、私たちは今、聖餐に与ります。聖書の言葉を信じる私たちが、聖餐に与る体験をするとき、聖書の言葉も、聖餐に与る体験の出来事も、私たちにとって真理になります。クリスマスに告げ知らせてもらった福音は、この私のためだったと確信するのです。

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