日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年12月4日 説教:森田恭一郎牧師

「成長させて下さる神」

イザヤ 九・一~六
エフェソ四・九~一六

待降節を迎えています。待降には二つあります。一つは、旧約時代に救い主が降りて来られて平和の王国が打ち立てられるのを待つ。イザヤが告げています。一人のみどり児が私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる(イザヤ九・五~六)。そして神の御子=救い主が降りて来られてマリヤのお腹に宿り、今から二千年前、クリスマスにお生まれになった。第一の降誕とも言えます。

もう一つの待降は、救い主が十字架で贖罪の御業を成し遂げられて天に昇られ、そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています(フィリピ三・二〇)とあります通り、救い主キリストの再び降りて来られる再臨=第二の降誕、第二のクリスマスを待つ期間です。この第二の待降の期間をどういう希望を持ちながら過ごすのか、今日の聖書から味わいます。

 

さて、今日のエフェソ書はクリスマスをこう表現しています。四章八節の旧約の詩編の引用を受けて「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、全てのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。降りて来られた、これはクリスマスの出来事。そして降りておられた、これは主イエスの地上の御生涯です。そして天に昇られて、今は天におられる。天におられて何をしておられるかと言いますと、そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです(エフェソ四・一一~)。牧師を教会にお与えになった。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ・・・。果たして、牧師の私が奉仕の業に適しているか、自分自身としては甚だ心許ないのですが、この適した者とするというのは、繕うという言葉です。ペトロたちがガリラヤ湖畔で網を手入れ=繕っている所をお召しになられたあの「繕う」。キリストが奉仕の業へと繕って下さる。  そしてキリストの体を造り上げて行きとなってどうなるかと言いますと、ついには(エフェソ四・一三)とあります。ついにはここに至る! これが教会が教会であることの完成形です。ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。ここに向けて私たちも教会も整えられて行って完成する。キリストの再臨、第二の降誕の時に私たちはこのように完成される。教会の私たちが持つ最終的な幻の姿です。成熟した人間。

 

完成形の反対の現状の、不完成の姿が未熟な者の姿です。一四節の反対で言い直しますと未熟な者で、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もて遊ばれたり、引き回されたりする(エフェソ四・一四)姿です。  第二の待降節の期間は、何もしないでただ待っているというのではなくて、私たちが、そして教会が、未熟な者から成熟した人間へと成長していく営みになる訳です。手入れされ繕われながら。

 

この第二の待降節の営みを語るのが一五~一六節です。むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長して行きます。ここに、真理を語り、とありますが、真理を語るのはまず牧師でしょ、という印象を与えますが、みんなでキリストの愛を語り合ったらいいのです。実はこの用語は、真理という用語のの動詞形です。日本語にはない言葉です。敢えて言えば、真理する。真理に生きる。そしてこの聖書では真理を語る。色々訳すことが出来ますが、要は、牧師だけではない。教会の姿であり、また皆さんの姿です。そして、頭であるキリストに向かって成長して行く。成長して「行く」のですね。                         去る十月末の教会研修会を振り返りますと、教会が教会となるために、そして相互牧会について学びました。エフェソ書で言う、真理を語り、真理に生きて、頭であるキリストに向かって成長していく営みは、教会がこの地上で教会であるために、私たちが地上で成長していくための在り方が、相互牧会であると学んだのではないでしょうか。  この相互牧会の姿を一六節は見事に語っています。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられて行くのです。

ここで注目したいのは「補い合う、組み合わされる、結び合わされる」という言葉です。特に注目したいのはこの三つの言葉がただ並列に並んでいるのではなくて「補い合うことによって」このことによって「しっかり組み合わされ、結び合わされて」いくのだということです。相互牧会は補い合うのです。教会は補い合うのです。私たちはお互いに補い合うのです。補い合うというのは、前提に補われる欠けがあるということです。繕うという言葉で言えば、手入れされ繕わなければならない破れがあるということです。私たちはこの地上では、決して完成形ではありません。お前は破れていてけしからんと非難するのは的外れです。教会もお互い同士も、欠けばかり、破ればかりです。だから補われ手入れされ繕われて、そうやってしっかりと組み合わされ結び合わされていく。このように補い合う仕方で、一六節後半、各々の部分は分に応じて働いて、それで体を成長させ、自ら愛によって造り上げられて行くのです。この相互牧会の在り方が、第二の待降節の歩み、完成形に向けて歩む今の歩みになります。

 

最後に、愛についてひと言。愛に根ざして真理を語り(一五節)、自ら愛によって造り上げてゆくのです(一六節)とあります。欠けだらけ、破れだらけの私たちをキリストが、その罪を赦し、手入れして繕い補うようにして、愛して下さいます。自力で成長していくのではありません。自分が愛されている事実を受けとめて、相手もキリストに愛されているという視点からお互いの姿を見出し、お互いに繕い補い合うのが私たち教会の愛です。成長させて下さるのは神です(Ⅰコリント三・六参照)聖餐においてまず、キリストの愛を受けとめ、私たち共に聖餐に与ります。自ら愛によって造り上げられていく土台、キリストの愛を、聖餐において味わいます。

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