Ⅰサムエル一〇・二二~二七
マタイ 四・一八~二〇
今日は、サウルのお話し。神様がイスラエルの最初の王様として選ばれた人、サウルのお話です。サウルという名前は「問いかける」とか「尋ねる」という意味があるようです。ですから、時が良くても悪くても「神様、どうすれば良いですか。神様の御心は何ですか」と尋ね求めることがサウルには大事なことであったはずの人です。
ある時、イスラエルの人々が祭司のサムエルに「私たちにも王様を立てて下さい」とお願いをしました。隣の国から何度となく敵が攻めてきて、みんな恐ろしかったからです。サムエルは、あなた方の王様は神様なのだから、人間の王様は必要ないと考えましたが、神様は王様を建てることをお認めになりした。神様に従う王様ならいいだろうとお考えになったようです。
それで、くじを引くとサウルが当たったので、イスラエルの初めての王様に選び出されました。ところが、そこにサウルは見当たらなかったので、人々はそこで、主に伺いを立てた。「その人はここに来ているのですか」。主は答えられた。「見よ、彼は荷物の間に隠れている」。人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民の誰よりも肩から上の分だけ背が高かった。サムエルは民全体に言った。「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民の内で彼に及ぶ者はいない」。民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳」(Ⅰサムエル一〇・二二~)。背の高い大の大人が荷物の間に隠れているなんて、なんででしょうね。きっとサウルは自分がイスラエルの最初の王様だなんて、とても出来やしないと思って隠れたのでしょう。
ところで皆さん、「可愛い隠れんぼ」の歌、知っていますか。こういう歌です。
♪ヒヨコがね、お庭でピョコピョコ隠れんぼ、
どんなに上手に隠れても、黄色いあんよが
見えてるよ、だんだん誰がめっかった。
♪雀がね、お屋根でチョンチョン隠れんぼ、
どんなに上手に隠れても、茶色の帽子が
見えてるよ、だんだん誰がめっかった。
それで替え歌、サウルに合わせて作ってみました。
♪サウルがね、荷物の間で隠れんぼ、
どんなに上手に隠れても、頭の髪が
見えてるよ、だんだん誰がめっかった。
「隠れる」というと、普通は悪いことして隠れるというイメージがあります。悪いことしたら神様から隠れることは出来ません。でもここでは、サウルは悪いことはしていません。むしろ、神様が御業のために用いようと選び出してくださった。それでサウルは荷物の間に隠れたんですが、そのように神様が目を留めて下さったら、やはり隠れることは出来ません。新約聖書のペトロだって、主イエスが「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われるとすぐに網を捨てて従った(マタイ四・一九~)のでした。もっともペトロだって自分に自信があった訳ではありません。実際、ずっと後になって、一番弟子なのに、人の目を恐れて、鶏が鳴く前に三度、イエス様のことなんか知らない、と言ってしまいます。でもそのようなペトロのためにも主イエスは祈って下さいました。
サウロの話に戻りますが、このサウロに従う人とそうでない人がいまする。しかし、ならず者は「こんな男に我々が救えるか」と言い合って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だがサウルは何も言わなかった。
王様になったサウルは、この後、敵との戦いで勝利を収めます。民はサムエルに言った。「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者は誰であろうと引き渡して下さい。殺します」。しかし、サウルは言った。「今日は、誰も殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから」(Ⅰサムエル一一・一二~)。
敵に勝利しても、自分が強くて勝利したのではない、主が、神様が救いの業を行われたのだ、と神様に従う王様でした。
でも、更にその後に、ダビデが部下となって、業績を上げるダビデの方に人々の評判が良くなり、ダビデを妬むようになります。自分が王様なのに、とイライラして、神様に何も尋ね求めることもしなくなります。思えば悲しいことです。結局、ある戦いに敗れて戦死してしまいます。
主の導き、聖霊の導きと主のお言葉に聴くことがなければ、王様だって無力になり、愚かになります。そして代々の王様は、どの王様も一〇〇%真っ当な王様はいません。まことの王様、救い主キリストが待ち望まれたのです。