サムエル記上二五・六
マタイ一〇・一一~一五
主イエスが宣べ伝えられた第一声は「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ四・一七)でした。そして弟子たちにお命じになりました。「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。町や村に入ったら『平和があるように』と挨拶しなさい」(マタイ一〇・七、一二)。主イエスが教会に求めておられるのも同じです。
河内長野教会、今日は教会創立一一七周年を記念しています。その歴史を貫いて、多くの信仰の先達の方たちが、イエス・キリストを信じる教会の信仰を受け継いでこられました。あの人がいたから次に繋がり、そして今の自分がある。一一七年間はこの歴史の積み重ねです。信仰の先達の皆さんが河内長野の地でして来られたことは、ひと言で言えば、イエス・キリストと共に天の国=神の国が到来したことを信じて、キリストの平和の挨拶をしてきた、ということです。
私は以前、キリスト教主義の福祉施設や学校でこういう議論を耳にしたことがあります。ここは福祉の場なのだから、ここは教育の場なのだから、伝道しないで下さい、と。これを聞き、えぇっ?と思いましたが、これも一つの理屈としては成り立つのかもしれません。なるほど、福祉事業の目的は福祉です。教育事業の目的は教育です。そこで私が思ったことは、伝道はしない。でも「平和があるように」と言い続けよう。言い換えれば「福音を信じなさい、主イエスを受け入れなさい」と語る前に、「平和があるように」と相手を祝福し続けようということでした。伝道するなと言われて、もし、けしからんと抗議したり、そんなお前は呪われよ、と表情に表したりしたらどうなりますか? 関係が壊れるだけです。むしろ「平和があるように」と祝福されれば相手は悪い気はしないでしょう、信じなくても……。そしてもし、相手の人が、祝福を受けとめ、キリストを信じる思いになって下されば、儲けものですね。
私たちは、福音を信じます。主イエス・キリストを信じます。教会は信じる群れです。ですから教会に来られた方には、信じましょうと勧めます。一方、教会の対外活動では、相手の人への平和を願います。祝福の思いを以て接します。主イエスのお言葉で表現するなら、「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」のですが、宣べ伝えるとは、次の仕える営みと一体です。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(マタイ一〇・八)。相手に仕えるこの営みがあって、それで「ほらっ、天の国はここにも近づいて来ましたよ」と言える。
そして、町や村に入ったら、そこで、相応しい人は誰かをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとに留まりなさい。これは、相応しいかどうか前もって調べるということではありません。私たちがすることは、全ての家、全ての人に対して、その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい、ということのみです。相応しいかどうかは相手の人が自ら示してくれます。「家の人々がそれを受けるに相応しければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。もし、相応しくなければ、その平和はあなた方に返ってくる」(マタイ一〇・一三)。私たちは祝福するだけです。
教会の広報紙「カナンの風」を配って回ります。喜んで受け取ってくださる方と警戒なさる方がおられます。でもそこで誰に対しても平和を願い、祝福の思いを以てお渡しします。
旧約聖書から、まだ王になる前のダビデの祝福の言葉を読みました。「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように」(サムエル記上二五・六)。この後の箇所を読みますと、しかし、ダビデに祝福された相手は、その祝福を受けとめようとはしません。それでダビデは相手をやっつけようとします。敵意の応酬です。すると相手の妻が、ダビデを執り成します。「愚かな夫の言うことは気にしないで下さい。あなたが流血の災いに手を下すことから主が守って下さいます。主がダビデの家を興して下さいます」とダビデに祝福を見出す訳です。それを受けてダビデは彼女に「平和に帰りなさい」と告げる。敵意が滅ぼされて祝福の応酬の平和が実現しました。
私たちのすることは、どのご家庭、どの人にも、平和を見出すことです。祝福を見出すことです。世の中には平和ではない辛い現実がある。祝福し受け取るよりも敵意の応酬、呪い合う現実があります。でもそこで祈ります。平和を、祝福を。
こんな祈りの言葉を見つけました。病を抱える人の親御さんの祈りです。
病気は癒されるものと思っていました。我が子が心を病んでから、私たちの祈りは切実でした。この坂を越えたら、この急な坂を耐えたら、向こう側に展望はひらける、と…。辛いことが一杯ありました。内と外にトラブルは尽きませんでした。
神さま、祈りながらあなたを疑いました。何故ですか。私たちは解放されないのですか。
長い年月が経ちました。ふと、気が付きました。病める子が懸命に闘っている姿に。
神さま、私たちは目覚めさせられました。主にあって約束されているこの子の未来が、東雲の光のように見え始めています。
神さま、この子と共に、約束されたかの日に向けて、私たちも歩み通すことが出来ますように。
この祈りの言葉を読んで、主イエスはこのご家庭に「天の国=神の国は近づいた」と宣言しておられると有り難く思いました。
先程、この祈りを親御さんの祈りと紹介しましたが、実は多分、この本(「祈りの小径」)の著者、小島誠志牧師の執り成しの祈りです。この牧師がこのご家庭に、懸命に生きているお子さんの姿に、祝福を見出している祈りとも読めます。
ですから教会も、例えばこのご家庭のことを、一見辛いことばかりで平和ではないこのご家庭に、主イエスが御国の到来をもたらしていることを私たちの信仰の内に見出して「平和があるように」と祝福し続けて良いのです。
そして「カナンの風」も、これと同じようにこの祝福の思いを以て手渡します。
河内長野教会の営みの本質は「平和があるように」と祝福し続ける営みであったし、これからもまた祝福し続ける営みであると確信します。