民数記 一一・一~九
ヘブライ一二・一~四
ヘブライ書の書かれた当時、迫害もあり得た状況の中で、信仰者たちはへたりこんでいました。あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように(ヘブライ一二・三)とありますから、実際そのようだったのです。そしていつしかそっと教会に行くのをやめて集会に集わなくなったり、棄教したりする人が少なからず生じてきました。それで、ヘブライ書は、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(ヘブライ一二・一)と勧めます。しかし、「走り抜こう」と言われて、「それでは走りましょう」と言って走り出せるか、それが今日の課題です。
走り抜こう、これは、弱気な信仰者たちを前に、そんなお前たちでは駄目だと叱りつけている……とか、ただ頑張れと一方的に励ましている……とか、あるいは、今の苦難にはきっと意味があるに違いないのだからと教えている……、のでもありません。そのような、分かりきったことをあれやこれやと言われても、元気は出てきません。
ヘブライ書は、こういう訳で、私たちもまた、このように夥しい証人の群れに囲まれている以上、と昔の旧約の信仰者たちを思い起こさせます。彼らは丁度、競技場で走ってきた先輩のランナー、そして走っているときの苦しさ、弱さ、踏ん張り所を経験的に知って理解出来るコーチのようです。今、競技場で走っている若いランナーを、暖かくへたこれないようにと応援しています。
ヘブライ書はまた、主イエスのお姿を見つめさせています。まず、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、と思い起こさせています。その主イエスのお姿が、また味わい深い。創始者また完成者です。口語訳聖書では導き手と訳していました。私たちが自分で始め、独力で完成させるのではない。途中も導いて下さる。私たちは、招かれて信仰を得、その営みはいつも不完全でしかない。リレーで言えば、途中の走者で、第一走者も最終走者も主イエスです。第一走者としてたすきを渡して下さり、最終走者として走り抜いてゴールインしてチームを勝利に導いてくれる希望を持ちながら、その道筋を進めば良い。ゴールインしたその場所で私たちを迎え入れて下さる。そういう主イエスを見つめる。孤独に走るのではない。
主イエスのお姿は次に、ご自分の前にある喜びを捨てられた。主イエスも最終は御子のご栄光です。ご自分の前にある、というのは神が備えたもう摂理と言っても良いでしょう。でも、その最終結果は摂理として備えられているけれども、その喜びを捨て、そこに至る途中の苦しさを身に受けられた。恥をも厭わないで十字架の死を耐え忍んだ。そして、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された。私たちもこの世の途中の人生で苦難を被る時、思い起こそう。主はそれを既にご存知で、いや、それ以上に分かって下さり共におられる。このお方のことを考えなさい。考える。じっくりと味わい見る。大きな支えです。
そして、あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。これは、お前たちはこれ程のことをしていない、腰抜け信仰者だ、だからお前たちも同じようにしなさい、と言っているのではありません。主イエスがもう、罪と戦って血を流すまで抵抗して下さったのだ、と言っているのです。人間には出来ないでしょう。
聖書が語る人間の姿は、気力を失い疲れ果てている姿です。疲れてくると不平や不満を言い出します。泣き言を言い始めます。そして神に向かって罪を犯します。民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数記一一・四~六)。これは荒野での民の姿ですが、こういうのは何度もです。水がなければつぶやき、食べるものがなければつぶやく。マナが与えられてもマナばっかり、もう飽きたと文句を言う。
詩編をご覧下さいますと、彼らは重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した(七八・一七)。どれほど彼らは荒れ野で神に反抗し、砂漠で御心を痛めたことか。繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方を傷つけ、御手の力を思わず、敵の手から贖われた日を思い起こさなかった(七八・四〇~四二)。苦難に遭遇する中で、みんな気力を失い疲れ果ててしまった結果だと言えるでしょう。
今日は説教題に摂理という言葉を用いたのですが、前もって備えられている、という意味ですが、先程のご自身の前にあるという言葉、またこれと同じ言葉なのですが、自分に定められている競争。摂理をこの詩編の聖句で言いますと、「それでも、神は」(二三節)ということです。繰り返し慈しんで恵みを注いで下さるということです。
詩編はしかし、民の姿をこう記します。「それにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し」(二三節)です。神様の「それでも」と人間の「それにもかかわらず」が歴史の繰り返しの姿でしょうか。だから仕方が無い、それが人間なのだと諦めるしかないのでしょうか。からみつく罪をかなぐり捨てて(ヘブライ一二・一)とありますけれども、本当に絡みついてきます。だからかなりぐり捨てる程のことをしなければならないのですが、そもそもこれも一人では出来ません。
民数記でモーセがしたことを確認します。民は主の耳に達する程、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした。民はモーセに助けを求めて叫びをあげた。モーセが主に祈ると、火は鎮まった(民数記一一・一~二)。モーセは主に祈ったのです。執り成しの祈りです。
主イエスエスのお姿も執り成しのお姿です。主イエスは日々、祈られました。十字架にかかられたその苦痛の只中でさえ「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三・三四)。ヘブライ書の語る主イエスのお姿、このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び(ヘブライ一二・二)、これも私たちのための執り成しの贖いの姿です。そして、神の玉座の右にお座りになったのです。神の玉座の右でしておられることもただ座っておられるのではない、執り成しの祈りであることは、皆さんご存知の通りです。
次年度の活動方針を長老会は検討中です。そこに考えている事の一つは、祈ろう、ということです。皆さんも祈って欲しいです。また祈祷会でも、例えば、週ごとに、求道者や教会員の家族の方たちのために、療養入院している方たちのために、次月誕生日の方のために、遺族の方たちのために、執り成しの祈りをしよう、ということを長老が提案して下さいました。主イエスを見つめる事が出来れば、そして主イエスを見失っているなら覚えて祈ろう、また祈りを以て寄り添いましょう。そうすれば自ずと走り出せる。頑張って走れ、ということではなくて、そのエネルギーが備えられる。そう思っての祈りの方針です。
パウロも言いました。あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのはかみであるからです。こうして私は、自分の走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることが出来るでしょう(フィリピ二・一三、一六)。