列王記上一七・一五-二四
ヘブライ一一・三五-三八
ヘブライ書は、希望を語ります。望んでいる事柄、見えない事実(ヘブライ一・一参照)です。 そして信仰者は、見えない事実の希望に生きた。それは反対側から言うと、信仰者に降りかかるこの世の見える現実がある。他の人たちは、更にまさった甦りに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました(ヘブライ一一・三五後半~)。誰でも訝しく思います。信仰者であるのに何故、これ程の厳しくも辛い人生を味わわねばならないのか。その理由をヘブライ書は一言で表現します。世は彼らに相応しくなかったのです。だから苦難がある。そして見えない事実の希望に生きたのだ、と。
希望には二つあると思います。一番目は、この世では叶わない天上の希望。ヘブライ書の語る希望の多くはこの希望で、約束されたものを手に入れませんでした(ヘブライ一一・一三、三九)と言う通りです。二番目は、この世で叶えていく、歴史の中で実現していく希望です。約束されたものを手に入れ(ヘブライ一一・三三)と記してある希望です。信仰者は、キリストの十字架・復活の御業によって、一番目の希望が確かであることを信じています。でも課題があります。今はこの世に生きていて不条理や苦難がある。それでも天上の希望があればそれでいい、世は信仰者に相応しくないのだから、と割り切れるか……。割り切れない所をどう生きるかという課題です。誰であれ、この地上の人生を納得できる仕方で歩めるように世の中を少しでも相応しくしていきたい。それで世を彼らに相応しくする、これが本日の主題です。
そこで今日は、預言者たち(ヘブライ一一・三二)の中からエリヤ、それから女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました(ヘブライ一一・三五)の聖句に合わせて、列王記上一七章に登場するやもめの婦人に注目したいと思います。
この婦人は、エリヤと出会ったこの時、干ばつが続いて生活が見通せない中にありました。彼女は言いました。 「私は二本の薪を拾って帰り、私と私の息子の食べ物を作る所です。私たちはそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(列王記上一七・八~)。絶望の只中です。そのような彼女にエリヤは主の言葉を伝えます。「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。これは希望の言葉です。その通りに希望が叶いました。
でも絶望がまたやって来ます。その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。そして一人孤独のまま自分だけが残された。絶望の中での看病と看取りの経験。息子のために結局、何もしてやれなかった。この悔いと自分の弱さに打ちのめされ、彼女は罪意識を自覚するようになります。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたは私にどんな関わりがあるのでしょうか。あなたは私に罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」(一七・一八)。
エリヤが主に求めると主は祈りを聴かれ、この子どもの命を元にお返しになります。再び希望が叶いました。婦人は言います。 「今、私は分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」(一七・二四)。婦人は罪の赦しと、今、この自分が御心の内に留めていてもらえている平安、それに、これからも主が共にいて下さる希望を経験します。
食糧難に代表される様々な困難、そして直面した死と罪の問題、この婦人の絶望を越えて導かれた希望の成就について、皆さんはどう思われますか。あの婦人には奇跡が起こったから立ち直れたけれども、私たちには奇跡は起こらない。私たちには関係のない昔話だ、と思われませんか。主の言葉の真実を私たちも分かっているのですが、主の言葉の真実と、この世の現実を生きる私たちと、どこか乖離したままになっていないでしょうか。そしてそれは「私に罪を思い起こさせる」絶望、神様に対する罪人の絶望を、私たちも抱えていることを明らかにしているのではないでしょうか。
一週間前の新聞記事(一月九日毎日新聞朝刊)に、子どもホスピスを叶えた人の話が載っていました。その人は二四年前に、六歳の娘を小児癌で亡くしました。余命半年と言われ、治療の為す術はなかった。闘病の様子は省きますが、その半年間の絶望感、察するに余りあります。亡くなってからも絶望は続きます。「もっと一緒にいてあげたかった。なんで娘は死ななければならなかったのか、何万回も考えた」。何も出来なかった弱さに打ちのめされます。仕事は続けたが、前向きに何かをする気持ちには到底なれなかった。
五年ほど時が経ち、娘の闘病を支えてくれた人たちへの感謝の思いが湧き始めた。家族が面会出来なかった時間にはきっと、傍らで励ましてくれたはず。人工呼吸器を外す決断をするまでスタッフが寄り添ってくれた。そう振り返ることが出来るようになった、その時に「短い一生でも娘は何かを伝えたくて生まれてきたはずだ」。娘は闘病中でも楽しみたい、学びたい、と前向きに生きた。そう考えるほど「病児と家族のために尽くしたい」の思いが募った。それで困難を乗り越えながら、子どもホスピスを立ち上げる夢を叶えていきます。
今は、依然として運営資金の課題は続く。でも小児癌遺族が携わって、子どもホスピス建設を目指す全国各地の人たちに、自分の経験を役立てたいという新たな夢が生まれた。その原動力を尋ねられて、父親はこう答えました。「この活動をしていると、娘と一緒にいられる気がします。親子で一つのことをしている気がするんです」。
この記事を読んで思いました。この娘さんは、あのやもめの婦人の息子のように甦らされることはなかった。でも父親のこの方は、今、この世で手に入れる希望を叶えました。この方は今、希望に向けて、あるいは希望の中を歩んでおられます。
さて、今日の主題、地上の人生を納得できる仕方で歩めるように世の中を少しでも相応しくしていきたい。世を彼らに相応しくする。このことを考えましょう。
「相応しい」の言葉は、ヘブライ書でこうも使われています。「イエスはモーセより大きな栄光を受けるに相応しい者とされました」(ヘブライ三・三)。相応しさとは、主イエスが栄光を受けられるように相応しくしていくということです。先程の父親がキリスト者であるかどうかは分かりませんが、たとえ信仰者でなくても、子どもホスピスの設立は、神様のご計画、御旨に添うものだった、と言えるのではないでしょうか。この父親がいずれ天に召された時、娘さんが駆け寄ってきて「お父さん、神様の御旨に添っていたことをやり遂げたね。イエス様が喜んでたよ」、そう言って、娘さんからお褒めの言葉を頂戴するようになるのだと確信します。
もう一人ご紹介したい人がいます。体操選手を引退した内村航平さん。一昨日、取材に応えて以下のような主旨のことを言われたそうです。「前回のオリンピックの後、身体の痛みなどもあって調子がよくなかった。東京オリンピックでも失敗した。以前は全てがうまくいっていたのに、この五年間は辛い弱さを抱え込んだ。でも、この弱さを経験して、以前には理解できなかった、落ち込んでいる人のメンタリティーも分かるようになった。自分が弱さを抱えた分、その分強くなって成長して大きくなった」。これから後進の指導に当たる内村航平さんの言葉、これを聴き、辛かった話のはずなのに不思議と希望が響いてきます。
もう一箇所「相応しい」の言葉を紹介します。
パウロのテサロニケの信徒たちへの祈りの言葉です。「どうか、私たちの神が、あなた方を招きに相応しい者として下さり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させて下さるように」(Ⅱテサロニケ一・一一)。あのお父さんは、娘さんの亡くなられた後、招かれていましたね。神様の地上に於けるご計画へと招かれ、善を求める願いを起こさせて戴きましたね。そして娘に何もしてあげられなかった絶望と弱さの経験があったからこそ、子どもホスピスの立ち上げに向けて、志を貫くことが出来ました。
こうやって、この歴史の中での希望を実現していきます。世を神様に栄光を帰するに相応しくしていくためです。神様は、聖霊の力を以て私たちも教会も、招き導いておられるのだと信じます。