列王記下二〇・一―七
フィリピ 四・六―七
今日は、祈る王様、聞く神様のお話をします。イスラエルの王様、最初の王様はサウル、次はダビデ、三人目がソロモン、イスラエルの国はその後二つの国に分かれて、北王国イスラエルと、南王国ユダになりました。今日登場するのは南王国ユダの王様で、名前をヒゼキヤと言います。紀元前七二六年、二五歳で王様になり二九年間、王様でした。エルサレムが都です。ヒゼキヤは、いつも神様を信頼し、神様に背いたり神様から離れたりすることはない王様でした(列王記下一八章~)。
こんなことがありました。王様になって四年後のことです。アッシリアという大国の軍隊が北から攻めて来ました。そして翌年には北王国イスラエルを滅ぼしてしまいました。更に南のユダの砦の町々までも占領して、エルサレムを包囲します。アッシリアの大将が「降伏せよ」と言って、いよいよユダの国もお終いかと思われた時のことです。ヒゼキヤは他の国に助けを求めたかというと、そうはしませんでした。
神殿に行って、預言者イザヤに「祈って欲しい」とお願いしました。自分もこう言って祈りました。「私たちの神、主よ、どうか今、私たちをアッシリア軍の手から救い、地上の全ての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせて下さい」。すると、神様が「あなたが私にささげた祈りを聞いた」と応えて下さいました。そして神様は「私はこの都を守り抜いて救う。私自らのために、父祖ダビデのために」と仰って、ヒザキヤが翌朝見ると、敵の兵隊さんがみんな倒れていたんだって。それでエルサレムの都は守られました。
それからこんなこともありました。それが今日読んだ聖書の箇所です。ヒゼキヤが四〇歳頃のことです。その頃、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが、王様の宮殿でしょうか訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。死ぬ程の重い病気になりました。死ぬにはまだ若いですね。それで今度ヒゼキヤがしたことは、顔を壁に向けて(二〇・二)とあります(今でも神殿跡に嘆きの壁があり、多くの人が壁を前にして祈るそうです)。これは王様の気持ちをよく表しているかもしれません。行く手は壁に阻まれて、自分の力ではどうしようもならない。八方塞がりという言葉もあります。その時にヒゼキヤは、主に祈った。なるほど行く手は、病気という壁に阻まれている。体もうつむいてしまう程です。でも、壁があっても八方塞がりでも、祈る時には、天井は塞がれていない。心は天に向けます。
そして祈りました。「ああ、主よ、私がまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こして下さい」。こう言って、ヒゼキヤは四〇歳の大人なのにエイエンと涙を流して大いに泣いた。この「ああ」という言葉、自分の思いと神様の思いとがかけ離れているなと思った時、人間が思わず口に出す言葉です。「ああ、主よ」、そうやって祈ります。
すると、イザヤが中庭を出ないうちに、主の言葉が彼に臨んだ。「わが民の君主ヒゼキヤのもとに戻って言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、涙を見た。あなたの祈りを聞きエイエンと泣いている涙を見たよ。見よ、私はあなたを癒し、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手から、あなたとこの都を救い出す。私は私自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く』」。こういう神様の御声がイザヤに届きました。イザヤはクルッと向きを変えて、壁の前で泣いているヒゼキヤの所に戻って伝えました。
こうやって、ヒゼキヤの病は癒されました。そして三日目には神殿に行って礼拝をささげることが出来ました。病気が治るというのは、ただ治ればいいというのではないですね。治ったら改めて感謝の思いを込めて、神様に礼拝をささげます。そして一五年間生きて、地上の人生を終えました。
お祈りする。皆さんはどう思いますか。軍隊が攻めて来た。八方を取り囲んでいる。あるいは病気になってもう死にそうだ。その時に祈ったって無駄だと思うのか、いや、こういう時こそ祈るのだと思うのか。今日の聖書個所では、ヒゼキヤが神様にお祈りすると、軍隊は攻めて来なかったし、病気も癒され直りました。
新約聖書でパウロも言いました。どんななことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう(フィリピ四・六―七)。人知とは、人間の思いや考え、知識のことです。その人知を超える神様の平和が与えられる。素晴らしい言葉ですね。覚えておくと良いですよ。自分が壁にぶつかった時、この聖書を思い起こせたら、心を天に向けることが出来るようになります。ですから一緒に声に出して読んでみましょう(この個所をみんなで音読)。
あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。何故こうなるのでしょう。それはキリストが私たちの祈りに耳を傾け聞いて下さるからです。ヒゼキヤも祈りの人でしたが、「私はあなたの祈りを聞き、涙を見た」と心をヒゼキヤに向けて下さった。そもそも神様は、祈る前から私たちに必要なものを全てご存知です。
私たちが祈る、このことにも増して、神様が聞いて下さること、涙を見て下さる、このことがとても有難いことですね。だから祈ります。祈った所で何になると思う時もありますが、でも聞いていて下さる。そう確信できると、そうか、聞いていて下さるのだ、分かっていて下さるのだ。そう思えるだけで、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守って下さる。不思議だけどもそうなのです。
先日、教会の信仰の先輩が亡くなられました。その方も祈りの人でした。目の前に壁が立ちはだかった時に、いつも「祈りましょう」と仰ってどんなことでも、思い煩うのはやめて、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける方でした。この方がこう文章を記しています。神様に一人ひとりが向き合い、自分の生かされている意味を考える時に、はじめて、為政者の都合などには振り回されない、為政者というのは時の政治の支配者、ヒゼキヤで言うとアッシリアの大軍、そういった周囲の事に振り回されない、自立の心が生まれる。端的に言って、神様に祈ることでしか自己は確立しないと発見した(『芽生え育ちて地の果てまで2』四八頁 中山昇)。八方塞がりでも、お祈りして上を見上げて、神様が見ていて下さる、聞いていて下さる、そういう神様と繋がったら、周りに振り回されない自分というものが出来上がる、確立する。信仰の先輩が、御自分の体験から記されました。
主イエスが守って下さると祈る時に、困難に振り回されずに、しっかり立てるようになるというのですね。そうすると、不思議と神様の用意して下さった結果が出て来る。八方塞がりだと思っていたら、天上だけでなく壁も空いている所がある。自分の望んだ通りだったりそうでなかったり結果は色々ありますが、神様の導いて下さったという出来事が見えて来る。神様の導いて下さった通りで良かったね、という気持ちになります。それが祈りの世界の不思議な豊かさです。自分が祈ったからこうなった、というのではありません。神様が聞いて下さる、神様が見ていて下さる。だから素晴らしい。人知を超えた神様の平和が皆さんの心と考えとを守って下さいます。