日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年5月24日 説教:森田恭一郎牧師

「達し得たそこから一歩、また一歩」

詩編 三七・二三~二四
フィリピ三・一二~一六

主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる(詩篇三七・二三)。今日は、この一歩一歩に想いを深めます。口語訳聖書は、人の歩みは主によって定められる、と一歩一歩を「歩み」と訳しました。一歩一歩の方が、そこから一層イメージが湧いて来ます。

一歩一歩……。出来る事なら一歩一歩ではなく、千歩も一万歩も先まで定めて見通しを与えて下されば安心なのにと思ったりもします。また走れば歩くよりも早く目的地に到着します。車で走り抜ければ尚更です。確かにそうなのですが、今日は敢えて、一歩一歩の良さ、大切さを確認したい訳です。例えば、万歩計をお持ちの方はきっと、一歩一歩、歩くことの良さと喜びを知っておられますね。歩くと道端の草花に気が付きます。ここで一歩一歩を定めておられると主が言って下さるのですから、この聖句を受けとめたい訳です。

 

この詩篇の記者は、年を重ねて来た人です。若い時も老いた今も(二四節)とあるからです。

だから走れない。一歩一歩歩くのがやっとだということを骨身に浸みて知っているのかもしれません。でも、体力の問題ではありません。年を重ねてきたというのは、人生経験を一つひとつ重ねて来たということです。そう思ってこの三七篇を読み直してみると、この人は色々と辛い経験をしてきた人のようです。

例えば、悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな(一節)。悪だくみをする者のことでいら立つな(七節)。どのようなことでいら立ったのか。主に逆らう者は、借りたものも返さない(二一節)とあります。いら立つのも無理はない。更に倒されそうになる。主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り、貧しい人、乏しい人を倒そうとし…(一四節)。倒されそうになったのは、貸したお金を返して欲しいと言いに行った。そうしたら踏み倒されたということでしょう。人は倒れても打ち捨てられるのではない(二四節)。ある訳では、倒れるとしても、頭から先に投げつけられることはない、とあります、実際にはぶん殴られて頭から投げつけられたのかもしれません。その意味では、社会的経済的にはあまり良い人生経験ではなかった。財産を失いその日暮らし。そういう一歩一歩の経験をしてきている。

その彼が、年老いて人生を振り返り、しみじみと語る。主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手を捕らえていて下さる。「辛酸多し、されど神は愛なり」。人生評価が災から恵みへと反転している。人生経験を踏まえたこういう言葉は反論できないし、重みがあります。その彼が、人生を振り返るだけでなく更に、子孫にも及ぶ将来を語る。生涯、憐れんで貸し与えた人には、祝福がその子孫に及ぶ(二六節)。そして読者に語りかける。主に望みを置き、主の道を守れ(三四節)。平和な人には未来がある(三七節)。

 

先週「教会総会開催にあたって」の文章を総会資料や書面評決用紙と共に郵送いたしました。その終わりの段落にこう記しました。「四年前、招聘に先立ち、このままでは十年後……、と長老会の意向を伺いました。色々な可能性を内に持つ教会です。今年度の活動については、既に去る三月の総会にて議決いたしましたが、今年度の営みもまた、この伝道地にあって次の時代に向け『栄光、神に在れ』を心に刻み、当教会の宣教(礼拝、伝道、教育、奉仕)の善き積み重ねの一歩一歩となりますようにと祈るものです」。この積み重ねの一歩一歩を支える聖句として、詩編三七篇の聖句を掲げました。

一歩一歩と言うのは、積み重ねの一歩一歩です。飛び越す訳にはいかない。一日一日、一歩一歩をコツコツと積み重ねて行きます。先の詩編記者は人生を振り返って、備えて下さった、と過去を語ることで終わらず、主は人の一歩一歩を定め御旨にかなう道を備えて下さると過去に終わらない人生の事実、これからの一日一日を語っている。私たちも、これからの営みについて主は人の一歩一歩を定め御旨にかなう道を備えて下さる、と主を信頼しながら今年の営みを積み重ねて行きたい。

 

そして、積み重ねて踏みしめて行く歩みは、一歩一歩そこでよく考えながらということでもあります。ただ頭で考えるだけでなく、歩きながら気付くということです。丁度、歩けば道端の草花に気付くように、色々なことに気付きます。仕事に追われ、何かに思い捕らわれていると、歩いていても道端の草花に気付かないまま通り過ぎてしまいます。

私たちはお互い同士、また教会の今年度の営みも一人ひとりに気付くものでありたい。一人ひとりに気付けば、そこから何か考え始めることも出来る。そして心を配ることの出来る者でありたい。教会用語を用いるなら、牧会です。そして牧師も含めて私たち皆が、相互に牧会する者でありたい。相互牧会、この言葉、覚えていて欲しいと願います。当初次週に予定していました教会修養会、延期になりましたが、相互牧会を主題の一つにしたいと考えています。キリストの愛と恵みを受け、血の通う共同体でありたいということです。

 

聖書は生きることや生活することを通常、歩むと表現します。フィリピ三章一七節以下にも、私たちを模範として歩んでいる、十字架に敵対して歩んでいると言っています。それに比べパウロは自分の人生を走ると表現します。目標を目指してひたすら走る(三・一四)。

これはわき目も振らず走り抜けるというニュアンスよりも信仰者また伝道者として一生懸命生きるという意味合いで語っているものです。その走る様は、なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、(口語訳聖書では前のものに向かって体を伸ばしつつ)キリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

走るにしても歩むにしても、グーっと体を伸ばして望み見る前のものがある。目標がある。パウロはそれを死者の中からの復活に達したい(三・一一)と語ります。続けて言います。私は、既にそれを得たという訳ではなく、既に完全な者となっている訳でもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。努めているのですが自力獲得とは異なります。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからと人生を走る力が向こうから来ることを語ります。丁度、母親が「こっちよ」と呼びかけると子どもが一目散に駆け寄って行くように…。先ほどの詩編の言葉も同じです。主は人の一歩一歩を定め…。主が定め、主が道を備えて下さる。その主を信頼してこそ歩む一歩一歩です。

 

パウロは走るだけで一歩一歩とは考えないのだろうか。考えています。私たちは到達した所に基づいて(三・一六)というのは一歩一歩ということですね。無理はしなくていい。無理して背伸びをする必要はない。しかしその一歩一歩を背をかがめてダラダラ歩くのではなく、グーっと体を伸ばして一歩一歩達した所に基づいて歩む。「一歩一歩」と「目標を目指し前のものに全身を向ける」この二つが一体になっている歩く姿です。

一日一日一歩一歩歩む中でこの目標を仰ぎ望む。パウロはこれを先ほど死者の中からの復活に達すると言いました。また私たちも、私たちの本国は天に在るということを知っています。これらは信仰者一人ひとりの目標としてしっかり持っていたい。教会もこれを語ります。

 

最後に、到達した所に基づいて仰ぎ見る地上の目標について思いを向けたいと思います。夢、幻と言っても良い。天に召された後の目標ではなく、到達した所でという地上に視点を置いた夢、幻です。思えば河内長野教会は、宣教師の世界伝道の地上の夢があって設立された教会です。そして学園設立の夢幻を掲げ、そこに向けて一生懸命走った教会です。新しいものを造り出すDNAを持っている教会です。詩編記者は言いました。主に望みを置き、主の道を守れ。平和な人には未来がある。

 

祈り 地上に生きるもの、世々限りなく聖なる御名をたたえます(詩編一四五・二一)。今日は集まって御名をたたえさせて戴き感謝します。主よ、私たち一同、教会が今の所から体を伸ばして望み見る夢、幻、目標を示して下さい。夢に向け、主がみ旨にかなう道を備え、一歩一歩を定めておられると信じます。

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