日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年2月23日 説教:森田恭一郎牧師

「親を通して心に刻む神の愛」

申命記 五・一六
エフェソ六・一~四

今日は十戒の第五戒「あなたの父母を敬え」の

御言葉を味わいます。この御言葉が語っている事

柄はこういうことです。父母を敬う事を通して神

を敬う事を身に覚えなさい。そして同時に父母か

ら愛されることを通して神から愛されていること

を身に覚えなさい。

父母に愛され父母を敬う。これは人間としての基礎的体験です。この体験があって、愛され敬うことが身につきます。思えば、親は子どもを愛するが故に叱ります。でも日頃から親に愛される体験をしていないと、叱られると相手は自分の事を嫌っているのだとしか理解出来ません。だから自分も叱ってくる人が嫌いと感じてしまい、愛と尊敬の人間関係を構築出来ないままになります。

 

十戒は、人間に対する戒めですから、第五戒も人間が守る事柄として「敬え」と語ります。けれども順序としては、まず父母が愛してくれていることが先です。愛されてこそ敬うことが出来ます。十戒に先立つ「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」の顕現句は神様があなたを愛している」と語っておられるのと同じです。だから当然、あなたは私を敬いますよねということになります。単なる敬えという命令ではなく、私が愛しているのだからという前提があっての戒めになります。

因みに、この戒めの五番目という位置が何とも面白い。十戒は、神の愛を語る顕現句の後、前半は神を愛することを語り、後半は神に愛された者としての隣人を愛することを語ります。第五戒を、父母を敬うことを通して神を敬う神との関係を語る戒めと読めば前半になります。一方、父母を隣人の一人として隣人を愛することとして読めば後半になります。五番目なので前半とも言えるし後半とも言える。前半と後半の橋渡しをしています。

 

主がしつけ諭されるように育てなさい(エフェソ六・四)とあります。これは神様が愛しているようにしつけ諭して育てるということです。ですから親が子どもをしつけ諭し育てる時、そこに神の愛が映し出されることが大事なことです。この四節は、父親たち、子どもを怒らせてはなりませんとありますが、普通は「父母を敬いなさい」と受けたら「子どもたち、父母を怒らせてはなりません」となりそうなものなのにそうならずに、親に対する戒めになっている。親の責任を問う。それでこそ子どもは親を敬い、ひいては神様を敬うように育つのだと言っている訳です。

ですから第五戒は、親孝行の道徳の話ではありません。そもそもそ父母を敬う根拠は何ですか?親だから当然? 親が立派だから?

あなたの尊敬する人は誰ですか、と幼い子どもに問いかけたら、私のお父さん、私のお母さんと答えるかもしれません。でも成長していく内に子どもは解ってきます。親も完全ではない、いつも愛の意志を以て育ててくれるとは限らない。感情的にカッとなって叱りまくる。何て自分中心の親だろう、と感じたり思ったりする。思春期の子どもだったら、お父さんなんか大嫌いとなったりする。親にも沢山欠点があり、いつしか年を経ると認知症になったりして世話が焼けるだけ、ということになりかねません。

子どもが成長するというのは、親にも欠点がある、親も愛されねばならない人間だということが解ってくる。親と子の関係から大人対大人の関係になってくるということです。欠点ばかりだけれど親も精一杯私を愛してくれたんだなと、親の存在を受容、肯定出来るようになります。立派な親だから肯定するのではありません。どのような親でも、その親の存在を受けとめることが出来るようになる。

それは親だけではない。自分も完璧な人間ではなくても自己受容出来るようになることが表裏一体になってあると思います。そうやって人は、経済的自立だけでなく精神的にも自律していく。欠点を抱えながらも生きていける。それを親にも自分にも見出し、大人対大人の関係になってお互いを補い合う関係になって成長していく。

 

主に結ばれている者として両親に従いなさいとあります(エフェソ六・一)。何故、主に結ばれ=主にあってと言うのか。先ほど欠点ある親と言いましたが、どう考えても欠点しかない。この親は私を愛してくれなかった。親は私の小さい時から私を虐致し最後は見捨てた。そのようにしか思えない。こういうこともあり得る。そのような親をも敬う、従う。それは出来るだろうか。感情的には処理出来ない。それでも敬うとするなら、主にあってということが不可欠です。感情ではなく意志、親を愛することにするという意志です。それが主に結ばれている者として、主にあって両親に敬い従うということです。

欠点ばかりの親を敬い従うのは大変なことです。なんでこんな人が私の親なんだと思うことがある。子は親を選ぶことが出来ない。それは言い方を変えると、神様がこの親を私に与えたのだということでもあります。これが主に結ばれてということにもなります。そして自分はこの親を通して命を与えられて生まれて来た。生まれて来てここで生きる者となった。

自分が生きることとなったこの土地。第五戒には、そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得るとあります。両親を通して命与えられ生れて来て生きることとなったこの土地、それは、あなたの神、主が与えられる土地なのだと言っている。親に対しても土地に対しても、主が与えたもうことに意識を向けますと、これは一つの言い方ですが、神との関係の垂直次元の出来事に関わることになります。神が与えたもう親、神が与えたもう土地。この垂直次元の下に家庭を築き、地域社会で生きる。

 

話は飛ぶようですが、ザアカイの話があります(ルカ一九・一~一〇)。ザアカイは主イエスを見たかった。でも人垣に遮られて見られなかったので、木に登り、丁度そこを通られる主イエスのお姿を見ます。すると主イエスが、木に登ったザアカイを見上げて声をかけて下さった。人垣が遮っても、この木に登れば主イエスを見ることが出来、御声をかけて戴ける。

この最後の所でザアカイは「あなたもアブラハムの子なのだから」と言われました。ザアカイの両親もアブラハムの子です。ザアカイは、敵国ローマのための徴税人の頭をしていて、周りの人たちから異邦人扱いされてアブラハムの子だと言ってもらえなかった。だから主イエスが敢えてアブラハムの子だからと言って下さった。

それなら私たち日本人は? 私たちはアブラハムの子ではない、異邦人の子です。自分の両親も。でも、神に愛される者として造られた神の被造物ですから、誰であれ愛されたいという本質的な願いを抱いています。ただ異邦人はアブラハムの子と違って、私を愛して下さる方がおられることを自覚出来ない。また誰が愛してくれるお方なのか、誰にお会いすればいいのか解らない。それがアブラハムの子と異邦人の子の大きな違いです。でも、私たちは、あの木に登れば会うべき方に会える。その木があれば希望があります。

教会はザアカイが登った木のような存在です。教会に行けば、聖愛保育園も清教学園もそこに行けば、誰に会うべきかが解る。日本社会という人垣があっても、この木に登れば解る。異邦人の子である私たちも、神に愛される神の子たちであると言って戴ける。それは、異邦人の、神を見出せない罪をキリストが十字架で贖って下さったからです。十字架の木が教会にははっきり見える。

 

話を戻しますが、父母を敬え。敬う事を学んだ人は、主が与えた土地で長く生き幸いを得る。そうすればあなた方は幸福になり、地上で長く生きることが出来る。日本社会の風土、河内長野という土地柄で、そのコミュニティの中で、長く生きるために、何が必要か? 異邦人であっても親を敬い、地域の人たちを敬う。この姿勢を学び、この姿勢でいれば、この土地で長く生きることが出来る。主が与えた土地で私たちは神が愛し神を敬うという垂直次元に生き、そこから周囲の人たちを敬いつつ歩んで行く。

この垂直次元があれば、欠点ばかりの親に感情的に反抗したり、欠点ばかりの自分の姿にただ落ち込んで流されたりすることもなくなる。時に不条理な社会があり、無意味に流行や風潮に社会自体が流され、自分も流されることになりかねない。でもそこに上を指し示す垂直次元の木がある。教会は垂直次元を明らかにしていく務めがあります。神様がキリストの十字架の贖いを以て、ここに愛があると愛を示しておられる。この垂直次元を明らかにしていく務めがあります。

「父なる神」と言います。「母なる教会」という言い方もあります。キリストの体である母なる教会に繋がり、この木に集う事を通して、神の子とされているのだ、とこの言葉は示しています。そして私たちは異邦人の子から神を敬う者へと変えられていく。 神に愛され神を敬うこの礼拝に於いて、これがいつも出来事となっています。

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