日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年9月5日 説教:森田恭一郎牧師

「良い子になれない私でも」

レビ記 二〇・七~八
ヘブライ一〇・一~一八

旧約聖書が告げていることは、人間は人間を救えないということです。私たちが真の神を選ぶのでもなく、私たちが能力があって神の民になれるのでもない。人間の善意に期待して、これだけ守れば救われるのではと律法の規則や儀式を制定したりもしましたが、結局、人間は罪深い。人の心は何にもまして、捉え難く病んでいる(エレミヤ一七・九)。最後は神様に救ってもらうしかない。だから救い主に来て欲しい。神様の契約は、神様が私たちの神となり、神様が私たちをご自分の民として下さる。旧約聖書はここに辿り着きました。

そして救い主キリストが来て下さいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ二・一七)。

 

今日のヘブライ書の次の言葉は力強いものです。罪と不法の赦しがある以上(ヘブライ一〇・一八)。赦しがある以上、他の何が必要だろうか。赦しのために救い主が来て下って、必要なことは成し遂げて下さった。人々が待ち望んでいた救い主は、イエス・キリストだ。このイエス・キリストこそ旧約聖書が記す通りのお方ではないか。

キリスト教会は、まだ新約聖書が制定される前のこと、旧約聖書を、キリストを証するものとして聞き取りました。ヘブライ書は今日の箇所では詩編四〇編を引用します。それでキリストは世に来られた時に、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、私のために体を備えて下さいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、私は言いました。『御覧下さい。私は来ました。聖書の巻物に私について書いてある通り、神よ、御心を行うために』」(ヘブライ一〇・五~七)。大胆にも、詩編がキリストの言葉であると理解しました。私は(=キリスト)は献げる体を備えられて来ました! つまりキリストが来て下さった。

 

このキリストの言葉から理解したことをヘブライ書は三つ続けて記します(ヘブライ一〇・九後半~一〇)。まず、第二のもの(=キリスト)を立てるために、最初のもの(=いけにえや献げ物)を廃止されるのです。救いを得るためのものとして律法の献げ物の規定は要らなくなりました。

そして、この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられた。イエスの十字架の死を旧約聖書からこう理解出来ました。それは、ただの無駄死にだったのではなく、律法が実現しようとしていた罪の贖いのための献げものとしての死だったのだ。

そして更に、人間の自己理解、これも驚くべき発見です。このことにより、私たちは聖なる者とされたのです。旧約のレビ記にもありました。自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。私はあなたたちの神、主だからである。私の掟を忠実に守りなさい。私は主であって、あなたたちを聖なる者とする(レビ記二〇・七~八)。ここに二つの記述があります。あなた方が聖なる者になりなさいというのと、私があなた方を聖なる者とする。どちらだろう。旧約聖書は両面を書き残しました。ヘブライ書は、でも人間は自分では聖なる者にはなれなかったと認識します。だから神様が聖なる者にして下さる。こちらを語っていると言えます。

このように以上三つの点を記していますが、イエスの十字架を、罪を贖う救い主キリストの献げものとして理解します。一一節でも、旧約時代の不完全な献げものではなく、キリストはご自身を献げられた。しかも、唯一のただ一回限りの完全な献げ物として献げて下さった。だから旧約の献げものは、もう不要になった、もう終わった。旧約聖書の聖句から聖霊に導かれた信仰の理解です。

 

そして今日、改めて味わいたい聖句です。「待つ」ことについてです。キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです(ヘブライ一〇・一二~一四)。私たちは人間の力で聖なる者にはなれない。だからキリストがご自身を献げて、私たちの罪や汚れを負って、私たちを聖なる者として下さった。それであなた方は聖なる者とされたということでしょう。だから、聖なる者として歩みなさい。そうだとは分かるのですが、これが私たちには厄介に思えますね。聖なる者として歩みなさいと言われても、まして永遠に完全な者となさったと言われても、キリストの側では私たちをそう見做して下さるとしても、歴史の歩みの中ではその内実が伴わないまま今も尚、罪にまみれ、捉え難く病んでいる。自分が聖なる者、完全な者として歩んでいるなんて実感が伴わない…。

でも、そのような私たちを、キリストは待ち続けておられる。如何にして待っておられるのか。

 

「キリスト教保育」という雑誌を私は幼稚園から毎月頂いております。その九月号にこういう記事があります。待つことについて示唆を与えてくれます。「キリスト教保育は『待つ保育』とも言われる。育ちを待つのですが、やみくもに待つのではなく、神さまに一人ひとりの子どもの育ちを願い、『育てて下さる』神にそれを望みながら、委ね待つ。神の業と子どもに与えられている力を信じて望みながら『神さまの業=子どもの育ちの時』が与えられるのを待つ。そしてこの『時』を保育者が受け留め、把握していく。ここに子どもの育ちを捉えるキリスト教保育の大きな独自性がある」。お気付きかと思いますが、私たちが子育てするのではない。子育ちです。私たちの役目は、神が育てて子どもが子育ちするその子どもを支援する。

待つ。キリストはただ待ち続けておられるのではない。神の右の座に着き、執り成して、幼い子どもたちを育てて下さる。保育者はその子どもに起こっている一つひとつの御業、もしかするとその御業は目立たないかもしれない。保育者は、子どもに関わり、その姿を見つめながら、神の御業によって生じる子どもの変化を見い出し、「時」を捉えて、受け留める。神様の関わりの下に子どもを見守るキリスト教保育の独自性がここにあると言えるでしょう。

その積み重ねの中で何が生じるのか。もう一言、本文から引用します。「子どもも保育者も神の恵みと愛の下で生かされ、共に育つことを喜びとする園の思いが優しさや温かさを醸し出している」。この醸し出される園の優しさ暖かさは、自分たちが子育てするのだと気負っている所からは生じにくいと思います。神が育て給う御業の時を受け留める姿勢から醸し出される思い雰囲気です。

 

このことは恐らく、キリスト教の幼稚園、保育園、こども園の「園の思い」だけのことではなく「教会の思い」も同じです。神の御業を待つ所から、教会の思いが優しさや温かさを醸し出す。河内長野教会も同じはずです。

聖餐に関わる記事だとされていますが、パウロがこう言っています。私の兄弟たち、こういう訳ですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい(Ⅰコリント一一・三三)。待つことの質は、一つの言い方ですが、まだ来ない相手を思って「もたつく」ことです。来ないなら放っておけ、と関係を断ち切ってしまうのではない。言い換えれば「赦し赦される」関係になることです。パウロはこれを、信仰が醸し出す教会の思いとして語っています。

罪と不法の赦しがある以上(ヘブライ一〇・一八)、赦しが裁きを越えます。赦し合いながら待つ。足りない所ばかりの私たちです。良い子になれない私たちです。それなのに、それでも裁かずに、一緒にもたつくことが出来るのは、そんな自分にも相手にも、教会の一人ひとりに、そして教会全体に、神の御手が働くと信じるからであり、その「時」を待って良いからです。テキパキと結果を求めがちですが、もたつくことがちゃんと出来るのも信仰の素晴らしさです。信仰とは、望んでいる事柄を確信して待つことでもあります。なぜなら、神ご自身が、一人ひとりに時が来るのを待ち続けて、その都度一番良い時に御業を為し給うからです。大人であってもここに「育ち」が起こるに違いありません。