日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年11月6日 説教:森田恭一郎牧師

「聖餐の、主イエスを分かつ牧会へ」

詩編   二三・五~六
Ⅰコリント一一・二七~三四

本日の聖書個所でパウロが、相応しくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります(Ⅰコリント一一・二七)と語る、聖餐式における相応しさとはどういうことか考えるのが今日の主題です。それが相互牧会に関わる事柄だからです。先週の研修会の予備資料としてお配りしました最後の所に、牧会とは聖餐に食卓に向かう聖徒の交わりであるという牧会の本来の姿とあります。牧会というと、礼拝や聖餐から離れたころで為される個人的配慮のようなイメージがあるのではないか。そうではなくて、牧会とは聖餐に与れるようにする聖徒の交わりだというのです。礼拝に集い、相応しい者として聖餐に与る群れが聖徒の交わりであり、そのことに一人ひとりを整えていく営みが牧会だ、という訳です。そこで、聖餐に与る相応しさとは何かを今日確認しつつ、先週の相互牧会についての研修会の恵みを振り返ります。

 

聖餐式においてこの聖句が読まれると、今日までの自分の信仰の浅い罪深さや道徳的な汚れた行いを振り返って、そのような人間は聖なる聖餐には与れないと考えることが多いのではないでしょうか。キリストに対する誠実な態度ではあります。もちろん、このような姿勢に対して、そのような私たちのためにキリストが十字架にかかられて罪も汚れも負って下さったのだから、このキリストに対する信仰を告白する者たちこそ相応しいのだ、と考える訳です。

この信仰なしに聖餐に与っても、それは唯のパン、ただの杯でしかありませんから、本人にとっても無意味ですし、自ら十字架にかかり命を差し出された主イエスの御心と御業を弁えずに聖餐に与ることは、キリストに対してもいわば失礼です。ですから、このキリストに対する信仰なしに聖餐に与るのは相応しくない、キリストに対する信仰を以て与るのが相応しい、と教会は言う訳です。このことは間違っていません。

 

その上で、しかしここでパウロは、もう少し別の角度から相応しさについて語っているようです。当時の聖餐の説明になりますが、聖餐のパンと杯の間に食事があったようなのです。聖餐式の間に愛餐の食事の時があった。食事の時(Ⅰコリント一一・二一)、食事に集まる(同三三節)、それから聖餐制定の言葉にも、また、食事の後で、杯も同じようにして(同二五節)とある通りです。問題はこの間にある食事の在り方にあったようです。この愛餐の食事の時に、勝手に自分の分を食べたり飲んだりしないで空腹の者がいないように、仲間割れしないように互いに配慮し合なさい、そしてみんなで一つの共同体となって聖餐に臨みましょう、ということなのです。

ここに信仰を告白するに至っていない求道者たちのことについては語っていません。今日の教会が求道者のみなさんに思いを向けるとするなら、今日の教会では聖餐と、愛餐の食事会は別々に行われますが、愛餐において求道の方に思いを向けることになるでしょう。パンと杯に与る聖餐式そのものは、やはり信仰を告白した信仰者に限られるものです。

 

話をパウロが語る相応しさに戻しますが、愛餐の時にはみんなことを忘れないで思いを向け合おう。それが愛餐の食事の前後に行われる聖餐に与る者の相応しさだと言っている訳です。言い換えるなら、一人ひとりの罪深さとかの個人の相応しさというより、みんなが思い合う共同体の相応しさをパウロは課題として取り上げています。

パウロが記すこの聖句も覚えておきたい。私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血に与ることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体に与ることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです(Ⅰコリント一〇・一六~一七)。

私たちは聖餐に与ります時に、キリストが私のために十字架にかかりその御体が裂かれ、血潮が流された、とキリストと自分の一対一の事柄として聖餐に与ることが多いと思います。けれどもその上で、更に、教会の信仰者みんなが共に与る、キリストの贖罪の恵みがみんなに注がれていることに思いを馳せ、共同体の事柄として聖餐に与ることを覚えたいと思います。

パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。この視点を牧会に取り入れますと、相互牧会の視点を育むことになります。牧師が信徒にという牧会関係だけでなく、信徒が信徒に関わる相互牧会です。更に、一個人が相手の方に善意で関わる一対一の相互牧会から、教会の体制として、時にはチームを組んで一人の信徒に関わる相互牧会へと、共同体の相互牧会に展開します。

 

先週の研修会の講演を伺い、改めて言葉として明確にして受けとめたことがありました。皆さんも色々おありだったと思います。今日私が、再確認したいことの一つは「教会が教会であるためになくてはならぬもの」という言葉でした。私たちの教会共同体は、単なる親しい者同士の仲良しグループでもなく、キリスト教を趣味とするだけの同好会的な集まりでもない、教会として無くてはならぬもの事柄を持つ教会そのものです。

その事柄とは、キリスト御自身です。キリストにおいて啓示された神が本当にいらっしゃるという神経験です。ですから教会の務めはキリストを届けることであり、教会の存在意義はキリストを経験するキリストの体であるということ。そのための恵みの手段が、公にささげる礼拝であり、福音を純粋に宣べ伝える説教であり、正しく執り行う聖礼典であるということです。ここでは罪を告白することが出来、罪を赦して戴くことが出来る。そしてキリストの体を経験し分かち合う聖徒の交わりの共同体を建てていく営みが共同牧会だということです。

 

牧会とは聖餐に食卓に向かう聖徒の交わりであるという牧会の本来の姿という言葉を戴いて、河内長野教会が続けて目指す、夢、また課題が改めて見えてきたようにも思います。罪の赦しの福音を分かち合う聖徒の交わりを豊かにしていくこと、病床聖餐・訪問聖餐を大切に丁寧にすること。私はケアマネージャーの資格はないけれども、河内長野教会は河内長野教会の特性や地域性を踏まえて、そういった社会福祉活動との連携を教会活動の視野に入れること、また教会単独でも方法論として相互牧会の色々な可能性はあるでしょう。

また、今日真似する必要はありませんが、主イエスの時代からコリント教会も含め、聖餐の合間、間に食事の時があった訳で、聖餐とは明確に区別して、愛餐とか食事の意義についても確認することがあるかもしれません。詩編にも私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えて下さる(詩編二三・五)とあります。黙示録でも、見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう(ヨハネ黙示録三・二〇)。食卓や食事への言及は、そこに意味があるからです。食卓を囲むところに、仲間意識さらには共同体意識が育まれるのは論を待たないことです。

河内長野教会に相応しい、食卓の在り方は、子ども食堂などに代表される地域を覚えての対外活動も含めた当教会の夢を豊かにするに違いありません。思えば、聖餐は天の食卓を象徴しています。そこでは全ての人々がキリストを告白してその食卓に与ります。聖餐式は信徒が集う仕方で、キリストの食卓を象徴し、愛餐会はもしかすると天の食卓への求道者への招きを象徴するものであるのかもしれません。

 

教会は、キリストから、十字架の贖罪と復活の希望を届けます。教会が教会であるための務めを自覚し、聖餐の食卓、天の食卓に向かう相互牧会活動を展開して行きます。またこの度の研修会を通して、教会同士の聖徒の交わりにも視野が広がりました。長老を派遣するために、伝道派遣牧会強化費が予算化されているのも驚きでした。地域の伝道協力も含め、河内長野教会の、将来への更なる可能性を指し示されているのだと確信します。

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