詩編 九四・一六~一九
ローマ一二・一七~二一
今日、心に留めたい聖句は「出来れば、せめてあなた方は、全ての人と平和に暮らしなさい」(ローマ一二・一八)。あなた方は全ての人と平和に暮らしなさい、と言い切らないで、出来れば、と言う。一見、弱腰にも見える言い方です。それは、二つ意味があります。
今のウクライナのように、たとえ平和に過ごしたくてもロシアが敵となって攻めてきたら、戦わざるを得ないことがある。だから「出来れば」。
もう一つは、最後は神に任せる他ないからです。我々自身の側に限界がある。あの人とはどうしても、仲良く出来ない、平和になれない、とことがあって、完全な平和は神様に任せるしかないときがある。それは「あの人のことはどうせ赦せない、平和になれない」と開き直ることではありません。ちゃんと神様に任せる。任せる部分があるなら、私たちの不完全であっても平和への方向性が定まり、神による可能性が開けてきます。それで「出来れば」、そして「せめて」神に任せることを知っている信仰者であるあなた方は、という言い方になります。
神に任せるとはどういうことか。ローマ書はこう言います。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります」(ローマ一二・一八)。パウロはこれを詩編九四編から引用しますが、私たちの信じる神は復讐、報復の神、ということでしょうか。復讐して下さるから任せよう、というのは何か不健全です。
詩編九四編は正義を求めて、報復の神の登場を願いました(詩編九四・一~二)。そして詩編は一方では、災いをもたらす者の滅びを願うこともしますが、一六節以下では、相手の滅びよりも、代わって立って下さる方のおられること、その支え、慰めを語っています。このことも知っておきたい。災いをもたらす者に対して、私のために立ち向かい、悪を行う者に対して、私に代わって立つ人があるでしょうか。主が私の助けとなって下さらなければ、私の魂は沈黙の中に伏していたでしょう。「足がよろめく」と私が言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。私の胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが私の魂の楽しみとなりました。信じて任せる神を語ります。
今日は招きの詞にヨナ書四章二節を読んで戴きました。神がどういうお方であられるのかを言い表したヨナの信仰告白と言っても差し支えない言葉です。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」。慈しみに富む神様です。
先日読みました出エジプト記では、「罪を問い、罰せずにはおかない」ということが慈しみと共に併記されていました。でもヨナ書では、罪と罰を思い直して下さる。そして詩編一〇三編八節以下では、主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。更に、主は私たちを罪に応じてあしらわれることなく、私たちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。罰する事は消えて慈しみを大きく語ります。
私たちが委ねることの出来る神様は、罰すべき罪をご存知の上で、人間に罪を問わないお方です。
その神のお姿が明確になったのが、十字架のキリストです。罪を罰も水に流すのではなく、自ら負われた。もしお前が神の子なら十字架から降りて来いと嘲られながら、ここに神がいると示して下さった。
神がこういう神であられるなら、私たちの側はどうなるのか。「出来れば平和に過ごしなさい」。もし、このお方を見上げずに敵の姿にのみ思いを向け、神に任せないとしたら、どうなるでしょうか。詩編四二編には、世の中の周囲の者たちが「お前の神はどこにいる」(四、一一節)と嘲る言葉が出てきます。私たちもこの嘲りの思いに巻き込まれて、自分も神なんかいないと思い、報復を以て自分で正義の回復を思ってしまう。そうなると一方が徹底的に負けるまで戦いが続く。あるいは、弱い者が抵抗しようとしてもどうにもならないで、諦めるしかない、敗北主義になるでしょう。
やはり悪に勝ちなさい(ローマ一二・二一)という方向性を失ってはいけません。その方向性を保ち得るのは、神に任せるからです。詩編四二編は続けてこう呼びかけます。何故、うなだれるのか。何故、呻くのか。神を待ち望め。私は尚告白しよう。「御顔こそ、私の救い」と。私の神よ。私たちは、十字架のキリストを仰ぎ続ける。キリストご自身が「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)と仰り、それを実現された。これを完全に真似することは出来なくても、このキリストを仰ぐ所から、何かが起こってくる。復讐したい位だという気持ちが、完全ではなくても薄れて、むしろ相手のために祈る思いが起こってくるかもしれない。そして悪に打ち勝つのに報復して相手を罰する仕方ではなく、相手のために祝福を祈る事を以て、悪に打ち勝つ、その方向性が出てくる。この時、出来れば平和に暮らしなさいということが、私たちの生き方になってくる。自分の中に起こるこの出来事を、私たちは信仰経験の中に既に、少しながらでも知り、経験しているのではないでしょうか。