申命記 五・六
ヨハネ一八・六
本日より、十戒(じっかい)を申命記の御言葉から理解し、また味わって参ります。東方から来た三人の学者たちは、幼子主イエスを前に黄金、乳香、没薬をささげました。今年私たちも、自分の人生と与えられた賜物を主の御前にささげて歩みたいと願います。このことを十戒から学びます。本日は、十の戒めに先立ち前文を取り上げます。
私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。これは、神様直々の自己紹介の言葉です。人間は神様がおられるのかどうかという事について、人間の側から確かめる術を持ち合わせてはいません。神様の方から、私はここにいますよ、と自己紹介して戴いて初めて、神様を認識出来ます。十戒の前文は自己紹介の言葉、神様がご自分を現わす自己顕現の言葉です。現わすと言っても、姿を現した訳ではありません。
神様が十戒をモーセに語っておられる間、イスラエルの民が見たのはシナイ山の様子だけです。神の御声を聞いただけで神のお姿、形は見ていません。申命記四・一〇--一三節~あなた(=民)がホレブ(出エジプト記ではシナイ山)であなたの神、主の御前に立った日、主は私(=モーセ)に言われた。「民を私(=神)のもとに集めなさい。私の言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、私を畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう」。あなたたちが近づいて山のふもとに立つと、山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた。主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。民はお姿を見ることはありません。
また御声を聞いたとあるのも直接聞いたのではなさそうです。出エジプト一九・九、主はモーセに言われた。「見よ、私は濃い雲の中にあってあなたに臨む。私があなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。神がモーセと語るのを民は聞く。それは民がモーセの言う事は本当だとモーセを信頼するようになるためです。モーセを介して聞きます。
そして民自身もお姿を見ないことを求めています。出エジプト記二〇・一八--一九、民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたが私たちに語って下さい。私たちは聞きます。神が私たちにお語りにならないようにして下さい。そうでないと、私たちは死んでしまいます」。そして次の節も読みますと、モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れを置いて、罪を犯させないようにするためである」。神が来られた。これって、クリスマスの出来事ですね。御子キリストでなく神様が来られたのですが、山に降って来られた。その山の頂で神が語られる。こうしてイスラエルの人々は、間接的に神様に出会うこととなりました。海が二つに割れてエジプト軍から救われたあの紅海の奇跡、そして、シナイ山が煙に包まれる有様、モーセが神様から語りかけられる状況を見る仕方で、直接的ではない間接的な仕方で神に出会う。
今日は申命記。この申命記の読者はもっと後の、神様どころかモーセにも会ったことがない後の時代の人たちです。申命記は、モーセの時代のことを申命記の時代の人々に語り聴かせている訳です。だからこの表現、イスラエルよ、聞け(五・一)。見るのではない、聞く…。申命記の時代の人たちは、モーセの姿も見ることは出来ない。それで、モーセとモーセの時代の言葉を今、聞くということになります。
申命記は敢えて強調します。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今、ここに生きている我々全てと結ばれた(五・三)と。申命記の時代の民が、聞けと言われて聞き、自分たちが契約を結ばれた当事者になる。彼らは、先祖のように出エジプトの奇跡やシナイ山の出来事を通して間接的にでも神様を体感するような経験はしていない。ただ聴くだけです。ここに信じる事の難しさ、あるいは信じることへの戦いがあります。
そう思って申命記を読みますと、味わい深いものがあります。例えば、ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい(四・九)。目で見たことをとありますが、実際には彼らは見ていない。だから自分自身に注意して聞かねばならない。次も同じ。あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった(四・一五)。だから、あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず…(四・二三)。よく注意して契約に留まりなさい。見ないで信じるのは難しい、戦いがあるということです。神様なんかいないと思って信仰から離れないようにと申命記は勧めています。神様の方から自己紹介、自己顕現して下さらないと神様のお姿は見えてこない。申命記はこれを聞くことに於いて勝負しよう、と言っている訳です。
思えば、これは私たちも同じですね。ペトロも言っています。あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています(Ⅰペトロ一・八)。私たちもキリストを見たことはありません。ペトロは救い主イエス・キリストに直接出会った使徒です。人々はこのペトロたちから福音を聞いて、喜びに満ち溢れる。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです(一・九)。ペトロは救い主イエス・キリストに直接出会う仕方で、地上にやって来られた神様に出会いました。もし救い主ではない仕方で主イエスと出会うとどうなるか、ヨハネ福音書が記事を残してくれました。イエスが「私である」と言われたとき(ヨハネ一八・六)。実はここで主イエスは自己顕現なさいました。この「私である」という言い方、これは「私は神である」と宣言するのと同じです。これを聞いた人々はその瞬間、人間イエスと思っていたこのお姿に何を見てしまったのでしょう。彼らは後ずさりして、地に倒れた。単なる自己紹介ではない。神様のお姿がここに現れ、神様の権威を垣間見てしまった。
ペトロたちは主イエスを見ます。ですが倒れなかった。救い主として見る導きの中で主イエスのお姿を見させてもらったからです。それで信仰に導かれる。ここに救う神と救われる者の人格的対面が起こります。主イエスは救い主だ、という出会いをペトロたちは経験しました。神様御自身のお姿を救い主のお姿にお隠しになりながら出会って下さった。そうでなかったら、ペトロたちも私たちも地に倒れるしかないでしょう。
ヨハネ福音書からもう一つ。甦りの主イエスがトマスに言いました。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(二〇・二七)。甦りの主イエスは弟子たちに、トマスにも十字架の傷跡のある手と傷跡のある脇腹をお示しになりました。主イエスはここで救い主として現われておられる訳です。ストレートに神様としてでもなく、また単なる甦らされた人間としてでもない。救い主としての神顕現の出来事でした。だからトマスは主イエスに向かって「私のイエスよ」ではない、「私の主、私の神よ」と喜びと感謝を以て信仰の告白を致しました。
さて十戒、申命記の前文に戻ります。私は主、あなたの神。もうお分かりのように、これは自己顕現の宣言の言葉です。これを直接聞いたら、イスラエルの民も倒れるしかありません。そこで、救い主のお姿にご自身を隠しておられることがここにも表現されています。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。奴隷の家から救い出したということです。十字架の傷跡を示した訳ではありませんが、救い出す神であることをはっきり語っています。
奴隷の家からどこへ? 神様を礼拝する自由へ。十戒の自己顕現の宣言の言葉は、この自由へと招いています。この前文に続く十の戒めは、戒めと言う用語から連想しがちな縛り付ける規則ではなく、自分を用い自分をささげる生き方に現れる自由を表現しています。これについては、第一の戒めから一つひとつ、来週以降学んで参ります。
この後、聖餐式。聖餐式では、主イエスが、神様であられながらそれを隠し、十字架で裂かれたお体と十字架で流された御血潮を以て、救い主であることを現わされました。聖餐に与り私たちも「我が主、我が神よ」と告白しつつ、信仰の実りとして魂の救いを受けていることを味わいます。