日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年3月3日 説教:森田恭一郎牧師

「福音の、仕えて生きる自由爛漫」

創世記 二・一五~一八
ガラテヤ五・一三~一五

自由には二つあります。一つは○○からの自由、もう一つは○○への自由です。

パウロも二つの自由を語ります。まず、この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです(ガラテヤ五・一)と語る「この自由」とは、○○からの自由です。ガラテヤ書の文脈で言うと、律法からの自由です。

そしてもう一つ、兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とはせずに、愛によって互いに仕えなさい(ガラテヤ五・一三)、これは、○○への自由。愛によって互いに仕えることへの自由です。

M・ルターも、「キリスト教的な人間(キリスト者)」とは何であるか、また、キリストがこれに獲得して与えて下さった自由とは、どのようなものであるか、と問いかけ、二つの命題を掲げました。

・キリスト者は全てのものの上に立つ自由な主人 (君主)であって、誰にも服しない(従属しない)。

・キリスト者は全てのものに仕える(奉仕する)僕 であって、誰にでも服する(従属する)。

前半は、全てのものの上に立つ全てのものからの自由、後半は全てのものに仕えることへの自由。二つの自由を語っています。

 

律法からの自由。それは、律法が命じるから○○しなければならないということから自由であり、律法が命じるから○○してはならないということから自由ということです。律法に支配される必要はありません。

でもそれは、自由奔放に生きて良いというのとは異なります。パウロが語ります。「私には全てのことが許されている」。しかし、全てのことが益になる訳ではない。私は何事にも支配されはしない(Ⅰコリント六・一二)。コリント書の文脈では、我が儘な自由奔放からの自由を語っています。

 

そしてもう一つの○○への自由、いつもお話することですが、例えば、仏教の葬儀に参列して、キリスト教徒であってもお焼香をあげて何ら構わない。ご遺族や他の参列者への配慮の故です。パウロは○○への自由についてコリント書ではこう語ります。私は、誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。出来るだけ多くの人を得るためです。それで一方では、律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。そして他方では、また、私は神の律法を持っていない訳ではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました(Ⅰコリント九・一九~二一)。

このパウロの姿、実に自由ですね(これを説教題で自由爛漫と表現してみたのですが…)。 自由と言っても、したい放題のことをする自由奔放の自由ではなく、相手を思って、相手に合わせて生きる自由です。これをガラテヤ書では、愛によって互いに仕えると語った訳です。

「キリスト教的な人間(キリスト者)」とは何であるか、この二つの自由に生きる者です。律法からも、この社会の因習からも、人の噂からも、全てのものから自由、それでいて、自分を失わないままに誰にでも合わせられる自由。私たちも自由爛漫に生きたいと思います。

 

さて、創世記の箇所を読みました(創世記・一五~)。エデンの園でのアダムに神様はこう命じられました。「園の全ての木から取って食べなさい。但し、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」。アダムは結局、妻と共に禁じられた木から取って食べてしまい、エデンの園から追放されることになります。この箇所を読む度に思うことは、神様がこの木を植えなければ良かったのに、ということです。

でも……、この木を植え、この木から食べるなと禁止されることによって生じた事は、食べるな、ということですから、○○してはならない、不自由になったのでしょうか。            どうもその反対のようです。この禁止の命令がなければ、どの木からでも取って食べて良い訳ですから、命令に反して食べてしまう自由がありません。むしろ、禁止の命令があることによってはじめて、食べない自由、食べる自由が備わりました。どちらをも選べることになった訳で、その上で神様は、食べずに、それを選ぶ自由を人間が生きるようにと、私たちをお召しになったのでした。

でも人間は、神様からのお召しには従いませんでした。神様に背を向けてしまいます。ここに人間の不自由があります。神様に従えないこの不自由から自由になり、従う自由へと自由になりたい。

 

今日「教会便り」を発行しました。その六頁に近況報告が載っています。小澤健雄さんの文章です。その終わりの方で、二年前にあるこども園に勤務するようにお招きを戴いたけれども「当時は、召命の時ではないと思い、お断りした」とあります。選択の判断を求められた時に、どちらに神様が自分を召していて下さるか、これが判断基準になった、ということのようです。ここに小澤さんはクリスチャニティを持っている訳です。これは自分のキリスト者であるということですが、神様からの召し出しを尋ね求めて人生の選択をして行く。ここに、二年前には断る自由があったし、今は、それを受けて奉職する自由がある。

そこで、改めて本日のガラテヤ書、あなた方は、自由を得るために召し出された(ガラテヤ五・一三)。神様は、私たちが自由を得るために召し出して下さいました。自由の中を生きるためには、神様からのお召しを受けとめる信仰が必要です。

 

これから聖餐に与ります。ルターがこう語っていました。キリスト者にキリストが「獲得して」「与えて」下さった自由とは、どのようなものであるか。キリストは十字架にかかられて自由を獲得して下さいました。そして私たちに届くようにと説教と聖餐を以て私たちに自由を与えておられます。このようにして自由を与えられていることを聖餐を以て味わいたい、と願います。

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