サムエル記下一二・一五~二三
マタイ 二二・三二
今日の説教題を「神共に、天に在っては生きている」としました。私たちは地上にあっても生きているし、亡くなった方も天にあっても生きていることを確認したいと思います。
さて、今日は、第二週ということで家族友だち礼拝、また十一月の第二週ということで召天者記念礼拝です。皆様とご一緒に礼拝をささげることが出来まして、とても幸いに思います。家族友だち礼拝では教会学校のカリキュラムに従って今年度は旧約聖書、最近はイスラエルの王、サウル、ダビデ、ソロモン、預言者エリヤを取り上げてきました。今日は、もう一度ダビデの記事です。
ある時、ダビデの子どもが、恐らく病気になって弱ってしまいました。もう死んでしまいそう。そこでダビデは「神様、何とかこの子が良くなりますように」と夜を徹して祈りました。その様子を聖書はこう記します。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした(サムエル記下一二・一六~)。お仕えの者たちもこれを見てとても心配しました。そこで、王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。それ程に「神様、何とかこの子が良くなりますように」と夜を徹して祈りました。こう祈るのは、親なら当たり前でもあります。でもダビデは、それだけではありませんでした。実は、この子の母親は、王様ダビデが部下から奪い取った女の人だったのです。この女の人の夫をわ ざと戦地に送って戦死させて、その後、自分の妻にしてしまう。それで生まれてきた子どもが、今、死にそうになっているこの子でした。ダビデにしてみれば、自分の子どもが、ただ重い病気になってしまったということではない、自分が悪いことをしたのを神様がお怒りになって、それでこの子が病気になってしまった、自分のせいで病気になってしまった。そう思えました。だから尚更、一生懸命、祈りました。
でも、七日目にその子は死んだ。
お仕えの家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられた時ですら、何を申し上げても私たちの声に耳を傾けて下さらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何か良くないことをなさりはしまいか」(サムエル記下一二・一八)。声をかけようにもかけられない。そして、ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り言った。「あの子は死んだのか」。彼らは答えた。「お亡くなりになりました」。
これを聞いてダビデはどうしたでしょう。家臣たちは心配しました。きっと、泣き崩れて、いよいよ悲しみに打ちひしがれてしまうだろう……。
ところが、聖書はダビデの様子をこう書き記して続けます。ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。悲しみに泣くどころか、言い方は変ですが元気になっちゃった。香油を塗ったというのは、元気になったしるしです。そして食事を摂り始められた。もうしょうがないと割り切ったのでしょうか。もしそうであるなら、随分、諦めの良い王様です。
それで、家臣は尋ねた。「どうしてこのように振る舞われるのですか。お子様の生きておられる時は断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます」。
何が、こうもダビデを割り切らせたのか。それは、主の家に行って礼拝をささげたことです。礼拝をささげて神様の恵みに触れた。なるほど、子どもが生きている間、神様がこの私を憐れみ子どもを生かして下さる、ということにはならなかった。子どもは私のせいで死んだ、そうダビデには思えた。
そうならば、子どもは子ども自身のせいで死んだのではない。だから神様が受け取って下さる。この子には、神様が天にあって憐れみを注いで下さる。我が子に対する憐れみを確信した、その確信を与えられてダビデは起き上がることが出来た。もちろん、自分が天に招かれたら、真っ先に、この子の所に行って謝るでしょうね。私のせいで七日間の人生にしてしまったと。そうしたらダビデのこの子は、天の恵みと憐れみの中で、気にしないよ、と赦してくれるでしょう。
主イエスは旧約聖書の父なる神様の言葉を引用してこう言われました。「『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」(マタイ二二・三二)。アブラハムもイサクもヤコブも、歴史的には昔の人です。それで神様が昔を振り返りながら「あの頃は、私は彼らの神だった」と、過去形で言わずに「私は彼らの神である」と現在形で語って下さるのは、彼らが神様の御前では甦らされて起き上がり、生きており、今現在も、神様が彼らの神様でいて下さるからだ。それを主イエスが保障しておられるということです。主イエス・キリストは御自身の甦りをも信じて、こう語られる訳です。私たちは地上でも生きているし、天に召されても生きることになります。
ダビデは、キリストのお甦りまでは思い至らなかったでしょうけれど、ダビデの罪、負い目さえもキリストが十字架で負って下さる。ダビデの思いを越えて、神様の憐れみを注いでおられます。
ヨハネ黙示録は「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(ヨハネ黙示録一四・一三)と告げます。ダビデの子は、憐れみを受けて主に結ばれての死を迎えた。天に在っては尚更、憐れみを受けている。そして遺されたダビデ自身についても、起き上がることが出来た理由がもう一つ。ダビデも主に結ばれて、キリストに罪を負って戴いた。この幸いの中に生きるようにダビデは招かれている。礼拝で、この憐れみの一端に触れた。それでダビデは、ただ諦めが良いという話ではなく、この憐れみの中で起き上がることが出来た。
キリストは今や、起き上がって生きるようにと天にあっては召天者をも、そして地上の私たちをもお招きになっておられると信じます。