詩編 二四・九~一〇
マルコ 一・二一~二八
ある安息日に四人の弟子たちと共にカファルナウムの町、その会堂に来られた主イエス、実は神の聖者でした。会堂にやって来られ御国の福音を宣べ伝えると、この会堂に汚れた霊に取り憑かれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(マルコ一・二四)ので分かります。会堂にいた男の人を通して叫んだのは、この人に取り憑いていた汚れた霊でした。この霊は汚れていたので全く汚れていない聖なるお方の正体がよく分かった。それで「正体は分かっている。神の聖者だ」と叫び出しました。
今日読みました旧約聖書に、城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる(詩編二四・九)、とありました。王様が来られる。それでお城の門を開ける。左右に開くというよりは、ガラガラッと鎖を引っ張り下から上に向かって開ける。だから頭を上げよ、身を起こせ。そこに、主イエスが神の聖者として来られる。皆さんは、自分の心の門を開けますか?
「聖者が町にやって来た」という曲があります。
黒人霊歌で、元々、葬儀の列を組みながらの歌、埋葬が終わって墓地から帰る時に歌う歌だそうです。歌詞の意味は、おお、聖者たちが行進していく。おお、聖者たちが行進していく。主よ、私もあの列に加わりたい。聖者たちが行進していく。言ってみれば、自分もいずれ天国に行きたい。天国への凱旋の歌です。日本語の歌詞もあります。
♪聖者がやって来る、僕たちの町に。みんなで迎えよう、聖者を町に♪
葬儀の歌というより、サンタが町にやって来たような楽しい歌詞になって「僕たちの町にみんなで迎えよう」。この日本語歌詞もまた良いですね。もちろん、神の聖者の主イエスがやって来られる。皆さんは「この河内長野の町に、そしてこの会堂にも迎えよう、是非、お越し下さい」とお迎えしますか? 会堂の扉、そして心の門を開けますか。
現代人は「汚れた霊なんてない。あの頃は病気の原因が分からないから汚れた霊のせいにしただけだ」と思うかも。なる程、今どき「汚れた霊」なんて言いません。ならばお迎えしても大丈夫?
実は今でも汚れた霊はあるのでは? 病気の原因ではありません。例えば、何かのことで腹が立ったり、意地悪になったり、自分のことしか考えられなくなったり、他人の目にうんざりして「構わないでよ」という気持ちになったりしませんか。自分からそう思いたい訳ではないのに、イライラしてしまう。全く不自由です。そういう時は、きっと私たちも汚れた霊に取り憑かれています。
ペトロは初めて主イエスお目にかかった時、「私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」(ルカ五・八~)と平伏しました。聖者にまみえたのです。自分の汚れにも気付きました。それで畏れかし込んで「離れて下さい」。でも、主イエスは、だからお前なんか汚れていて駄目だとは言われませんでした。その汚れと罪を十字架で負うから「私について来なさい」と招かれました。だから私たちも悪霊みたいに、主イエスに向かって「構わないでくれ」と言ってはなりません。主イエスに来て戴き、招いて戴く。この礼拝にも!
汚れた霊に取り憑かれたこの人、主イエスが「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。汚れた霊は追い出されました。この人は病気も治り、汚れた霊から自由になりました。主イエスが神の聖者として来て下さったお蔭です。但し心を空っぽにするだけでは駄目です。きっとこの人は、頭を上げ身を起こし、心の扉を開けて主イエスを迎え、従う一人になりました。
人々は皆驚いて、論じ合った。「これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。
人々は驚きました。汚れた霊が追い出されたから驚いたというよりも、主イエスの教えのお言葉が本当に出来事になって、汚れた霊が言う事を聞く。その主イエスのお言葉の権威ある力に驚きました。権威とは、腕力のような力ではなく、心と思いが自ずと従ってしまうような「この方の言うことは本当だ」と思わせる力です。
そして主イエスの権威は、神様の権威ですが、愛の権威。「この方の愛は本当だ」。私たちも礼拝に主イエスをお迎えして、主のお言葉を聞きます。