日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年7月11日 説教:森田恭一郎牧師

「神の国の譬え」

イザヤ四・二
マルコ四・二六~三四

今日は、主イエスがお語り下さった神の国の譬えの話二つです。

まず一つ目、ひとりでに実を結ぶ話。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしている内に、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(マルコ四・二六~)。みなさん、ここにヒマワリ。一昨日の豪雨で折れてしまったものです。阪神淡路大震災から始まった「はるかのヒマワリの種」、昨年の秋に戴いてきて今年の春に蒔いて、このように花を咲かせてくれました。教会の庭にあります。ひとりでに大きく、いつの間にひとりでに、あんなに大きくなったかと思う程です。帰りに見て下さい。

 

「子育て支援」という言葉があります。保育者が子どもを育てるという支援ではありません。敢えて言うなら、親が子どもを育てるのを保育者が支援する。そしてもう一つ、「子育ち支援」という言葉をある保育園で聞きました。子ども自身が育っていくのを保育者は支援するという意味です。「キリスト教保育」という雑誌があって、お隣の幼稚園から私も毎月戴いておりますが、五月号にこんな記事がありましたので紹介します。

「人は他の人に命令されて行動するより、自分がやりたいことをする方が、確かに楽しいものです。子どもだって同じです。(教会の大人の私たちも同じです。賜物を生き生きとささげる方が楽しいすね)。すべり台では、必ず階段からではなく、すべる台から反対に登る、支えの柱をよじ登る、腹ばいで滑る、二、三人連なってすべる、段ボール箱に乗ってすべる、砂を蒔いてその上をすべるなど、大人が『やめなさい』と言いそうなことをみなやってみたい。成長途中の子ども、自分が今、出来る事のもう一歩むずかしそうなことをやりたがるものです。あるいは、物理の摩擦の研究を知らず知らずの内にやっているのかもしれません。冒険好きというのは、絶えずより高度なことに向かって行こうとする成長願望です。石橋をたたいて渡るより、出来るかな、よし、やってみようと思い切ってやる方がはるかに楽しいものです」以上が抜粋の文章ですが、これは子育ちでしょうね。

 

いつだったか、聖愛保育園でこういうことがありました。職員の礼拝に伺った時の事です。その日は場所がないということで、子どもたちのいる所で職員礼拝をささげることになりました。讃美歌今日は何番にしましょうかと話している内に、それまで騒いでいた子どもがいつしか静かになって、大人の私たちは、何も気にせずに礼拝を始めることが出来ました。保育者のだれも「静かにしてね」などと一言も言わないのに。いつの間に、自分たちでそう出来るようになったのかなと感心しました。

お隣の幼稚園での話も紹介します。その日は雨だったので、私が園に伺ってホールに入って年中クラスの礼拝に参加しました。終わった後、子どもたちは自分のクラスに戻り、私も帰ろうとしましたら、一人の子が、私の靴を揃えて置いてくれました。これも誰にも言われないのに、です。

この二つの事例、その子たちは初めは、他の人が話をしている時には静かにしなさいとか、お母さん荷物を持っているから靴出してとか、言われるきっかけ、子育てはあったかもしれない。でも、別の場面で、自分で判断して良いと思う事をしてくれた訳です。自ら子育ちしていますね。

土はひとりでに実を結ばせる。そのように、子どもたちもひとりでに成長していきます。そして神の国もそのようなものだ、という訳です。

 

二つ目、初めは小さいが後に大きくなる話。「神の国を何に譬えようか。どのような譬えで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(マルコ四・三〇~)。

昨日、この礼拝堂で結婚式がありました。妻になる新婦は、お母様が当教会の教会員だった方で、ご本人も教会学校に出席していて下さいました。そして「教会で結婚式をあげるのなら河内長野教会で」と希望して下さり、この度の運びとなりました。夫になる新郎は、キリスト教家庭に生まれて、途中成長過程は存じ上げませんが、この度の出会いになった訳です。

お二人とも、教会での結婚式を挙げようという事になったのは、各々、ご自分の中に、福音の種がまかれていた。初めは小さかった。自分でも気づかない程に。そしてまた自分でも気づかない内に、教会で主イエスの御前で式を挙げようと思う程に大きくなっていた。ひとりでに育っていた。そしてこの度の結婚式は、お二人同士の愛を誓約し合うに留まらず、福音の種を蒔かれている者である事を、自分に対しても相手に対しても、自覚なさった出来事ですね。これからは、二人で、福音の種を自覚して育んでいかれることでしょう。そして、自覚し合った者同士が形作って行く結婚の人格共同体が、教会の礼拝で栄養を戴きながら成長して、これから、葉の陰に空の鳥が巣を作れる程大きな枝を張る。神の国がここにも始まって、お二人がそういう主イエスの御心に導きに応える社会的存在になっていく訳です。楽しみです。

 

主イエスは仰いました。神の国はそのようなものである。イザヤも預言しました。その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる(イザヤ四・二)。神の国の栄光の飾りに、子どもも大人も私たちの存在が添えられる。気が付かない程の小さい所から、ひとりでに、私たちの意識的な意図を越えて、神の国、神のご支配が及んでいます。実に有難いことです。