詩篇24篇7~10節
ヘブライ人への手紙11章13~16節
今日は、主の祈りの祈願の二番目「御国を来たらせ給え」を味わいます。ここで一つ問題です。主の祈りの中で、これが実現すれば他の祈りも全て実現する祈りはどれか…。答えは「御国を来たらせ給え」です。御国が来れば、なるほど他の祈りは全部実現している。神を父よと呼び、御名は崇められ、御心は成り、日用の糧も与えられ、罪は赦され、悪も退けられている。国と力と栄とは皆、主のものになっている。御国が来たならば、全ては完成している。また地上の歴史において何故こんなことが起こったのかと訝しく思った不条理もまた、御国にあっては、そうだったかのかと納得出来る。今日のこの祈りは、全て納得し、全ては完成する約束を語っている。
その意味で私は、この祈りを祈る時、全てが完成している情景を仰ぎ見て、何か憧れ、何かうっとりするような、ホッとする思いがします。
主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)の第一声を以て宣教を始められました。これを福音の中心として提示なさいました。
神の国が近づいたということについて、よくこういう説明を致します。私も今日、そのままご紹介したいと思います。駅のホームで乗客は電車が来るのを待っている。ある人はベンチに腰掛け雑誌を読んでいる。またある人たちは、大きな荷物をホームに置いて楽しそうにお喋りしている。そこにアナウンス。「間もなく電車が到着します」。見てみると向こうの方から電車が近づいてくる。お喋りしていた人たちは「電車が来たよ」と言って荷物を手に持ち、またベンチに腰掛けていた人は雑誌をカバンにしまって立ち上がり、電車に乗る用意を整える…。以上、とても分かり易い説明ですね。
電車はまだ駅に到着していない。でも到着しない訳ではない。来るんです。だから安心してホームで待つことが出来ます。そしてやって来る電車を見ると「電車が来た」と言って、乗る準備をする。これが神の国が近づいた状況です。身を整え乗る準備をする、私たち信じる者の地上の人生の姿です。
御国を来たらせ給え、この祈りには将来の納得と完成の希望の下で二つの側面があることが分かります。一方で、今は、未だ完成していない。他方、完成しないのだと言い切るのではない。神の国は来ないのではなく「近づいた」と宣言される。
未だ到着していない、でも電車が来たと言える確かさ。神の国は完成していない、でも神の国が近づいたという確かさ。この確かさは、キリストがクリスマスの時にこの世に降誕なさった、地上を歩まれた、会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、病気を癒された。そして十字架にかかり、死人の中から甦られた、このことに於いて確かです。神の国は、主イエスとそのご生涯において始まっている。
神の国、それは神のご支配が実現しているということです。終末の神の国が到来するその時には、神ご自身が、主キリストご自身がお出でになり、その支配は確立し完成する。完成して希望が成就したら、十字架の贖いも、復活の永遠の命もまた、全ての人に明らかです。到来した神の国の光景は、万物の礼拝がささげられ、主の栄光が輝き亘り、神は我々と共におられる現実を味わっている。
神は、ご支配なさるから表現としては王様です。今日の詩編、城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。身を起こすのは、城門でしょうか、人々も含まれるのでしょうか。いずれにせよ、身を起こすのは王が来られるからです。そして王をお迎えするべく身を整えます。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。私たちは、全てを支配なさる王なる主と出会う希望の中にいることが出来る。
王が来られる、神の国が近づいたと信じるということは、一方で、人間の造る地上の歴史は神の国ではない、と言い表すことです。人間の努力を以て神の国を来たらせ完成させることは出来ません。私たちはあくまでもこの希望の下で生きます。信じるとは希望を持てるということです。
他方、王が来られる、身を起こせ。神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。身を起こして、そして悔い改める。悔い改めとは「悪いことをしました、すいません」という反省や懺悔とは異なります。方向転換です。絶えず、神の国の希望に思いを向けます。先程、人間が自分で神の国を造る訳ではないと言いましたが、かと言って、この世から神の国に逃げる訳ではありません。神の国の希望に向けて地上を歩む。この地上の歴史の中で、いつも新たに、身を起こし神の国へと向き直っていく、そのような悔い改めの歩みです。
ここで聖書の二人の登場人物を思い起こしたい。一人はイスカリオテのユダです。彼は、主イエスを裏切った後、主イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し(マタイ二七・三)、首を吊って自ら命を絶ちました。裁判にかければ、主イエスは悪いことをしていないから無罪になるはずだ、と思っていたのかもしれません。でも思惑通りにはなりませんでした。それで後悔する。それは自分を省みることであり、反省であり、同じことを繰り返さないためには大切なことです。けれどもユダは、後悔するだけで、方向転換=新しく生きることにはなりませんでした。
もう一人はペトロです。ペトロもまた主イエスを三度も知らないと言って、主イエスを裏切りました。その限りにおいてはユダと同じ。他の弟子たちも、主イエスが捕らえられた時、彼らは皆、主イエスを見捨てて逃げ去りましたから、裏切ったのは他の弟子たちも同じです。自分も同じ立場にいたら逃げ去るだろうなと思うと、私たちもそうです。
ペトロはでも悔い改めました。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」(ルカ二二・六一)、そして「立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・三二)との主の御言葉を思い出した。主イエスの眼差しも思い出しました。主イエスに向かって方向転換する悔い改めになりました。方向転換する中で、主イエスを裏切るこんな自分のために主は十字架におかかりになるのだと気付かされ、そして後に、立ち直り兄弟たちを力づける使徒となりました。
そうです。私たちには後悔したくなることが沢山あるに違いない。後ろを振り返ってそこで立ち止まったまま後悔し自分が悪かったと反省することもある。失敗から教訓は学ぶのが大事であるにしても、それは留まり続けるためではない。そこに留まり続けはしない。
今日のヘブライ書は、その情景を旅人と表現しました。この地上が終の住処ではないことを言い表しました。方向転換して、いつも旅に出で立ち歩み出していい。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
この箇所で「この人たち」とは旧約の民です。彼らは、救い主の姿を見たい、お言葉を聴きたいと願ったが聞けなかった。その点弟子たちは出来た。新約の私たちも、聖書の証言によって、イエス・キリストのお姿を信仰の目で以て見、その御言葉を信仰の耳を以て聴くことが出来る(マタイ一三・一六参照)。天の故郷、神の都、神の国。神様が準備していて下さる。キリストの十字架と復活の故に、確かに用意は整っています。
それで私たちは、その神の都、天の故郷の確かさと希望を知っている。それ故に、私たちは地上では旅人であって、この地上の生活が最終的な全てでも神の国でもないことを知っている。
そしてまた、地上の旅は、たださ迷う放浪の旅ではない。この旅人は目的地を知っている。その旅の中では、神がいますことを疑わず、罪赦されている慰めの中に永遠の命の希望を抱き、福音を信じて生きることが出来る。そこへと悔い改め、繰り返し方向を新しく定めて歩んでいる。ペトロへの言葉で言えば兄弟たちを力づけて、神の国の確かさ、福音を分かち合いながら、旅を続けることが出来る。それは神の国が近づいたからです! それで私たちは旅人として歩みながら「御国を来たらせ給え」と祈ります。