創世記 二五・三〇~三四
ヘブライ一二・一二~二四
今日の説教題を「神が近づき、神に近づく」としました。前回、カリキュラムに従って、人の子(=主イエス)が戸口に近づいている(マルコ一三・二九)の聖句を味わいました。主イエスが戸口に近づいて下さったのは、クリスマスの時、今の礼拝の時、終末の歴史の完成の時とお話しました。今日の聖書箇所(ヘブライ一二・一八~)では、父なる神様が近づかれたこと、出エジプト記の記事からシナイ山で主なる神が降って来られたことを思い起こしています。
主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである(=神が近づかれる)。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない』」。三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた(出エジプト記一九・一〇~)。この箇所を思い起こしての一八節以下があります。神が近づいてきて下さっても、結局、イスラエルの民はモーセと祭司アロン以外は神の御前に立てない。神聖なる神様の御前に罪人は立てない。死んでしまう。御前に立つというのは怖いことです。
これに対して、主イエスが戸口に近づいて来て下さるなら、私たちは御前に立ち神に近づくことが許されている。私たちが神に近づく場所のイメージを描いています。シオンの山の出来事として語ります。しかし、あなた方が近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です(ヘブライ一二・二二~)。
主イエスは、新しい契約の仲介者イエスです。神聖なる神と汚れた罪人でしかない私たちの間に立って、汚れと罪を負って下さった仲介者である主イエスがおられるシオンの山、無数の天使たちの祝いの集まり……。私たちが近づくのは、怖い場所ではなく、祝いの喜びの場所です。 さて、ヘブライ書は教会の聞き手に向かってこう呼びかけていました。全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか(ヘブライ一二・一後半)。そして今日の箇所では、萎えた手と弱くなった膝を真っ直ぐにしなさい(ヘブライ一二・一二)。これを読むと何か、しっかり立って走れ、と叱られているような感じがするかもしれませんが、良く味わってみるとそうではありません。というのは続けて、また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるように、自分の足で真っ直ぐな道を歩きなさい。「走りなさい」ではない。「歩きなさい」。走れない人がいることを分かっているんですね。「足の不自由な人」がいる。杖の必要な人も、車椅子が必要な人も、ベッドから起き上がれない人もいます。大事なことは、立派に早く走ることではなく、そのコースから外れないことです。「真っ直ぐな道を歩きなさい」とあって、自分で「真っ直ぐに歩きなさい」ではありません。私たちに備えられている道がある。この道は既に、主イエスのおられるシオンの山、生ける神の都、天のエルサレムに真っ直ぐに繋がっている。この道にいればもう大丈夫です。
そして、私たちがいれば大丈夫というこの道とは、教会の礼拝の集いのことです。この礼拝に集って、仲介者の主イエスの御前で恵みを戴き御名をたたえる日々のことを、ヘブライ書は聖なる生活と表現します。聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることは出来ません(ヘブライ一二・一四)。聖なる生活とは、礼拝生活です。こう語るのは、当時、迫害が続く中で、礼拝に来なくなる、背教する教会員も多かったからです。それで続けて語ります。神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなた方を悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。
それで気をつけるようにと、続けてエサウの失敗を思い起こさせます。エサウはアブラハムの息子、イサクの息子で、弟がヤコブ。長男として祝福を受ける長子の権利を持っていた。それなのに……。誰であれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。先ほど読みました創世記の記事の通りです。目の前の現実の必要性、エサウの場合は空腹を満たすことに引きずられて、こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた(創世記二五・三四)。私たちも同じように礼拝の恵みをつい軽んじてしまうことがあるのかも知れません。エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことが出来なかったのです(ヘブライ一二・一七)。ここを読むと、祝福はもう得られないのかと心配にもなります。旧約では、長子の権利はキリストに向かって収斂していきます。だからそこに向かって減っていきます。でも新約では、祝福はキリストから広がっていきますから安心です。 けれども、だからと言って、真っ直ぐな道から脇へと逸れて礼拝を軽んじたら、軽んじているその間は、地上の人生において神の恵みから逸れてしまいます。エサウのように、飲み食いしたあげく立ち、去って行った(創世記二五・三四)。近づかないで、離れて行くことになる。だから聖なる生活を追い求めなさい、礼拝を大切にと勧めます。 エサウみたいに外れてしまうことがないように、ヘブライ書はもう一つ語っていることがあります。それは、教会における執り成しです。まず、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるように、自分の足で真っ直ぐな道を歩きなさい(ヘブライ一二・一三)。ここでは、足の不自由な人に向かって真っ直ぐな道を歩めといっているのではなさそうです。礼拝に集わなくなったりしている「足の不自由な人が踏み外すことなく癒やされるように」、真っ直ぐな道を歩むのは私たちです。あるいは、人が神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなた方を悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように(ヘブライ一二・一五)。もし私たちが礼拝に集うことに悩まされてしまうと、他の多くの人が神の恵みから除かれてしまう、汚れてしまう。礼拝出席について悩まないように私たちが気をつけよう。 私たちが礼拝に出席しているこの事実は、離れていってしまう人々に立ち返る場所を提示していることになります。「また行ってみたい教会」の礼拝の姿です。これらの記事は、礼拝に集う教会の私たちが、執り成しの存在になっていることを語っているようです。そして併せて、私たちが執り成しの存在であることを自覚し表すためにも、私たちも執り成しの祈りをささげ、心を配る者でありたい。私たちはともすると信仰によって生きるのは自分だけのことだと思いがちですが、礼拝者であることは自分のことに留まらず、この人のこと、あの人のこと、周囲の人たちを恵みへ導く事へと広がっている訳です。みんなで神に近づきたい。教会の集いの意味を改めて教えられます。