創世記三二・二三~三一
Ⅰペトロ三・九
私たちにとって大事な言葉が三つあります。それは、有難う、相手を赦すという意味で、もういいよ、そして、ご免なさいという言葉です。これらを大事な場面で語ることが意外と難しい。
三つの中で一番言い易い、有難うだって、相手から善いことをしてもらったのに、自分の嫌いな人や下に見ている人だったりすると心から有難うとは言いにくい。逆に、悪いことされたら? 相手が謝って来ない内に、相手を、赦すことが出来ますか。自分は悪くないのに赦すなんて自分が損をした気分になりますから。また、自分が相手に悪いことをしてしまった時に、ご免なさい、とこちらから言う、謝ることができますか。自分の過ちを認めることですから、これも簡単ではありません。
今日は、イサクの息子たち、エサウとヤコブという双子の兄弟が、この三つの言葉をなかなか言えなかった。でも、その苦しみを心の中に抱きつつ、ヤコブは神様と格闘するほどに祈って祈って、神様のお蔭で言えるようなった、というお話です。
事の起こりは、兄エサウが受け継ぐことになっていた祝福を、弟ヤコブがお父さんイサクを騙して横取りしてしまったことから始まります。弟ヤコブは祝福欲しさに悪いことをします。でもご免なさいと謝ることが出来ません。兄エサウは、そんな弟ヤコブは生かしておけないと怒りに燃えます。やられたらやり返して報復する。悪いことをされて赦すことが出来ません。そこで弟ヤコブは兄から逃げるようにして家を飛び出し、叔父の所で長く留まることになります。その期間およそ二十年。それだけ時間がたてば、二人とも昔のことは忘れて仲良くなれたのでしょうか。なれません。何年たっても、仲良くなれません。課題に向き合うことなく逃げるだけでは、物事は解決しません。
そこで神様は弟ヤコブに、「あなたは生まれ故郷に帰りなさい」(創世記三一・三、三二・一〇)と言われたことを思い起こし、家に戻ることにしました。ヨルダン川を渡ればその先には兄がいる所になります。そのままでは赦してもらえないので、準備をします。やり返されても助かるように、連れてきた人々と家畜を半数ずつに分け、贈り物を先に送って、兄エサウの機嫌を宥めて、後から自分は行くようにと考えました。
それでも、兄が赦してくれるか心配です。一人残ったヤコブのいた場所は、ヨルダン川に流れ込む支流のヤボク川。そのヤボク川を渡るヤボクの渡しという所。その夜、何者かが突然現れて、夜明けまでヤコブと格闘、ちょうど相撲をとるような感じでしょうか。なかなか勝負がつきません。夜明け近くになってその人が「もう去らせてくれ」と言います。ヤコブはその時、「祝福して下さるまでは離しません」(創世記三二・二七)。
実はこの格闘した相手は神様だったのです。それでこの格闘は、ヤコブの祈りの格闘だったのです。祝福の内に赦して下さい。この真剣な祈りの格闘です。それでこの神様が言いました。「お前の名前はヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる」。ヤコブは生まれるとき、兄エサウのかかと(アケブ)を引っ張って(アーカブ)生まれてきたので、ヤコブとつけられました。その名前がイスラエルに変わる。イスラエルとは神が戦われるという意味です。赦しのために神が戦われるのです。
そして格闘した相手の神様が何と「お前は神と人と闘って勝ったからだ」(創世記三二・二九)と言われるではありませんか。神と戦って勝つ人などいません。
この後、戦いの相手の神様は、ヤコブをその場で祝福して下さいました。ヤコブは、そうかと判りました。祝福は、自分が横取りするようなものではないこと。神様が与えて下さる恵みであること。そして祝福とは、自分が心から言えなかったご免なさい、と言えるようになることだ、と。神様が祝福して下さるので、安心してご免なさいと言える。ヤコブに祝福を与え、ヤコブがご免なさいと言えるようにするために、神様が戦って下さったのだ、そう分かりました。分かったという点でヤコブは勝ったのでしょう。
それから、ヤコブはヤボクの渡しからヤボク川を渡り、兄の所に向かいます。途中、ヤコブは七度地にひれ伏した(創世記三三・三)のでした。これは謝る姿です。これを見た兄エサウは、走ってきてヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いたのでした。ヤコブはここで赦した。そして仲直りしたのでした。これは思いがけない祝福の出来事です。ヤコブは贈り物を兄に差し出しました。この贈り物は祝福という言葉だそうです(創世記三三・一一)。弟ヤコブは兄エサウに、かつて横取りした祝福をお返しした訳です。
弟ヤコブは、赦しを求めて格闘しました。神と戦って勝つ人はいません。負けたのです。でも負けた所から、祝福の内に赦しを戴きました。それで兄エサウにひれ伏して謝り、祝福を贈り物として差し出すことが出来ました。その時、弟ヤコブは、祝福を差し出す人となりました。
新約聖書から次の聖句を選びました。「悪を以て悪に、侮辱を以て侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなた方は召されたのです」(Ⅰペトロ三・九)。
思えば、イエス・キリストが私たち全ての人のために、罪を負う戦いをして下さいました。赦されたその祝福の中で、私たちは謝ることが出来るし、赦すことが出来る。そうやって祝服を受け継ぐ者となります。受け継ぐとはただ受けるだけで終わらない。祝福を相手の人に差し出すとき受け継ぐ人に変えられているでしょう。