創世記 四九・二八
ヘブライ一一・二〇~二二
今日の聖書箇所で、イサクとヤコブは祝福を祈りました。ヨセフも同じです。
以前おりました教会の礼拝に、隠退教師の方が出席しておられました。その先生が時々仰いました。「最後の祝祷が良かった」。説教はどうだったのですかと問いたくなる所ですが、むしろ、祝祷の大切さに気付かせて戴いたと思います。敢えて言いますと、礼拝の本質は祝福にあるとも言い得ます。説教で何が語られたか、礼拝後には忘れてしまう。先週の婦人会での説教を巡る話でも、その話を聞きました。でも、説教を聴いた結論として、祝福を受けた、有り難かった、と思い起こし祝福の有り難さを体感しているなら、それで十分です。その人はキリストの恵みからも、教会からも離れていくことはないでしょう。今日は、祝福の約束に生きる幸いを味わいたいと思います。
イサクとヤコブは祝福を祈りました。それは、神様が語りかけてアブラハムに 「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記一二・二)と祝福を授けて下さった所から、彼の信仰者としての歩みが始まり、祝福を授かったことをアブラハムが息子イサクも、孫のヤコブも伝える。その祝福をまた、子どもたちも受け継いでいるからです。アブラハムにとって、主が語りかけて下さるということが、神が共におられる信仰経験でした。この祝福を授けて戴いた。讃美歌集にある6番目の祝福は、ヤコブへの祝福ですが 「見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守る」(創世記二八・一五による)と主が夢に現れてヤコブに言われた祝福の言葉です。それは、祝福を戴いているヤコブの今の信仰経験でもあり、これからも戴くという約束への信頼でもあります。アブラハム以来その人生の歩みは、この祝福を追求し続けた歩みでした。アブラハムがイサクを奉献出来たのも、神は共におられてイサクを祝福して下さるという、神様の望んで下さる見えない事柄を信じ抜いたからです。イサクもヤコブも、子どもたちへの祝福を信じて祈ります。
それでヘブライ書はイサクをこう記しました。信仰によって、イサクは、将来のことについてもヤコブとエサウのために祝福を祈りました(ヘブライ一一・二〇)。旧約聖書のこの箇所をご存知の方は、あれ? と思われると思います。イサクが実際に祝福したのは弟のヤコブだけであったのではないか。その通りです。でも、イサクは晩年目が見えず、弟ヤコブを兄エサウと勘違いしてエサウを祝福したのだから、両方を祝福したのだ、とヘブライ書は強調しているようです。
この二〇節で併せて目を留めたいのは、イサクが将来のことについても祝福したということです。将来のことですから、約束とも言える。神が共におられる将来にわたる約束、これもまた祝福の内容です。そして将来にも起こることですから、祝福は信頼して待ち望むことでもあります。神が共におられる。この祝福の内容を旧約の信仰者たちは待ち望んだ。
マタイ福音書の冒頭に、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図が載っています。この系図は、神が共にいて下さるという祝福を信じ追求して、イエス・キリストに至ったことを示す系図です。そしてマタイ福音書は、クリスマスのキリストご降誕の出来事を、神が共におられることの成就だと語っています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ一・二三)。
イサクは、将来のことについてこの祝福に向けてヤコブとエサウのために祈った。信仰によって祈りました。神が共にいて下さる祝福を待ち望むのは、信仰によってこそ出来ることだからです。
次はヤコブです。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り…… (ヘブライ一一・二一)。イサクから祝福を受けたヤコブが、晩年、十二部族の最初となった子どもたちをまた祝福しました (創世記四九・二八参照)。ここで思いを向けたいのは、ヤコブがこの祝福の祈りをしたのは、死に臨んでの時だったということです。困難の時に私たちを支えるのは、今、主が共におられるという信仰です。そしてこれからも、主が共におられるという信仰です。そしてそれは、死をも乗り越える。 そしてヤコブは、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。もう年老いて自分だけでは立てない。杖によりかかってようやく立てた。そのようなときにヤコブがしたことは礼拝をして子孫のために祝福を祈るということだった。それは神様からの祝福、すなわち子孫たちにも神が共におられることを信じての、信仰によって出来ることです。その杖は信仰の杖でもあります。もう自分は死に臨んでいる見える現実の只中で、いわば闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(イザヤ九・一) 向こう側の見えない祝福の現実を見る。
それは約束ですが、儚い約束ではなく、信仰によって喜び得る希望、神が共におられる確かな希望となります。信仰の杖によってこの約束の中に立つことが出来る。ヤコブもまた「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」たのです(ヘブライ一一・一三)。
そして次はヨセフです。一七歳の時にエジプトに売り飛ばされ、散々不条理を味わったヨセフ。でもその都度、神が共におられる祝福を信じ、異境の地、エジプトの地で歩み抜いた。そのヨセフもまた同じです。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り… (ヘブライ一一・二二)。神があなた方と主におられるから、エジプトを脱出して約束の地に戻れる。イスラエルに子孫たちについて、そのように祝福を思い描きました。
続いて、自分の遺骨について指示を与えました。約束の地でのずっと将来の埋葬のことです。自分も約束の地を望みながら地上に生きた証を遺そうとしたのではないでしょうか。
墓前礼拝でいつも申し上げること、それは、墓に埋葬する意味です。墓はその人が地上に生きた証になること。お墓参りをする毎に、故人の地上を生きた姿を思い起こし、その生き方と信仰を自分も受け継ぐ思いを確認する。故人はでも、お墓の中にいるのではない。まさに神が共におられる天に移されていることを覚えて、自分も天を仰ぐ。
お墓に埋葬するのは、そのように過去を見ることより、天上の確かさを思うことです。
ヨセフは臨終の時こう言い遺しました。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みて下さり、この国から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上って下さいます。神は、必ずあなたたちを顧みて下さいます。そのときには、私の骨をここから携え上って下さい」(創世記五〇・二四~)。神が必ず顧みて下さる。それは、将来も神が共におられる、ということです。神が誓われた土地に将来導き上って下さる。埋葬する行為は、過去の子孫を思い起こすためではない。神が望んでおられる将来の希望、その祝福に思いを馳せるためです。
私たちは、信仰の先輩方から、信仰によって、この祝福を受け継ぎ、また受け渡していきます。祝福を、地上でも天上でも共に受けるためです。
イサクもヤコブもヨセフも、人生には色々と見える現実がありました。でも、それは、祝福を信じ、祝福を追い求めての人生の営みでした。ヘブライ書は彼らの人生を聖書に読みながら、その人生の本質を、祝福を自分の人生に、そして子孫たちに追い求め見出していく営みであったと、理解したのです。
私たちも日々、祝福の約束の中にあります。毎日祝福を待ち望み、振り返れば、今に至るまで祝福を戴いてきたことを見出し、また将来に向けて約束の内に祝福を見出していきます。毎週の礼拝の祝祷はキリストの祝福を思い起こさせてくれます。ただ今からの聖餐もまた、キリストによる祝福の約束の確かさを思い起こさせてくれます。