日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年4月3日 説教:森田恭一郎牧師

「目から涙をことごとく」

詩編 八四・一一~一三
黙示録 七・ 一~一七

先程、大勢の群衆がなつめやしの枝を以てエルサレムに入城なさる主イエスを出迎えた箇所を読んで戴きました。この箇所は教会暦では通常、受難週の主日に読まれるもので、一週間早いのですが、今日の黙示録にも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って(黙示録七・九)とあり、招詞に選びました。

エルサレム入城の主イエスをホサナと出迎えた大群衆は、その後、いとも簡単に扇動されて「十字架に付けろ」とわめき立てるようになってしまいました。主イエスは、扇動した者たちの罪も、わめき立てる浅はかな群衆たちの罪をも真正面から受けとめて十字架で贖って下さったのでした。十字架。今日の黙示録の言葉で表現すると、小羊の血で洗って白くした(黙示録七・一四)ということです。

それに対し、黙示録に登場する大群衆は「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊とのものである」(黙示録七・一〇~)と大声で言い、続けて天使たちも、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなく私たちの神にありますように、アーメン」。天使たちも参加する永遠の礼拝です。今日は、すべての群衆が天上の永遠の礼拝に招かれていること、それを地上で象徴しているのが礼拝に招かれている教会の私たちであることを覚えたいと思います。

 

さて、今日の聖書箇所を読んで、恐らく皆さんが気になる数字があると思います。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた(黙示録七・四)。この数字は、よく誤解され、時には伝道の脅しに悪用される数字です。伝道活動すれば十四万四千人の内に入れる。あるいは、信じないと十四万四千人の中に入れませんよ、と恐怖心を煽って伝道する。

この数字は、そんな数字ではありません。十二部族の中から各々一万二千人、12×12の数字で、よく完全数と言われる数です。日本風に言いますと縁起の良い数です。聖書では、十二部族とか十二使徒とか、十二は完全数。それを十二倍するのですからやはり完全数です。その完全は、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆(黙示録七・九)という、あらゆる国民の大群衆、全ての人たちを意味しています。

ですから、入学試験のように合格者が限られている狭き門を示す排他的な数字ではありません。

こう言いますと、主イエスのお言葉を思い起こされるかもしれません。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ七・一三~)。主イエス語る狭さとは数の少なさではありません。主イエスを見出す者が少ないという狭さ。ですから主イエスを見出して、誰でも入り通れる。主イエスが十字架の血で完全に洗って下さったのですから、その意味では誰にでも開かれた実に大きな門、幅の広い道です。十四万四千人とは誰にでもという完全数です。伝道も、みんな救われるから信じましょうという、安心と喜びの伝道です。

 

数えきれないほどの大群衆がなつめやしの枝を持ち、小羊なるキリストを出迎えホサナと叫ぶ。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊とのものである」。そして天使たちも、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなく私たちの神にありますように、アーメン」。天上の永遠の礼拝が始まります。

更に長老の一人が将来の礼拝の光景を未来形で語ります。「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。神殿が設けられキリストが礼拝に招きます。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。環境が整えられます。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、十字架の主イエスが真の神であられることが明らかになります。命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく、拭われるからである」(黙示録七・一五後半~)。命の水の泉、ここから飲むと、病は癒やされ、痛みも悲しみも嘆きも労苦も涙と共に取り除かれる。

ウクライナの戦争、避難する市民の行列にもミサイルが飛んでくる様子が報道される中、「人間の安全保障」と言われたりもします。人は誰でも安全で安心な日々を過ごす権利がある。一人ひとりの人間が恐怖と欠乏から自由であり、尊厳を以て暮らすことが出来る、人間の安全保障です。黙示録七章の礼拝の光景は、人間の命の安全が保障されている光景です。その中で小羊なるキリストをほめたたえる。この光景を仰ぎながら、地上における人間の安全保障の回復を願います。

 

報道を通して知ることの一つは、世界中の市民からウクライナ市民への支援の広がりです。西欧諸国の国による支援とは異なるSNSを通じて呼びかけられる支援です。ある新聞に「国境を越えて」という見出しで載っていました。

聖書は世界が一つになることを語っています。黙示録の、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中からというのも、その表現の一つです。交読文で読みました、諸国の民は一つに集められ、主に仕えるために、全ての王国は集められる(詩編一〇二・二三)も同じです。交通手段、通信手段が発達して、人と物と情報が国境を容易に越える。それで感染症も環境破壊も世界中で共有することになってしまう。そしてみんなで解決に取り組まねばならない。一国では解決出来ない。そんな社会・歴史変動を経験しながら、必然的に人類は一つになっていく。その行き着く先を聖書は万民の礼拝という光景を以て描いている。

人類は一つになることを憧れている。詩編八四編。万軍の主よ、あなたのいます所は、どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、私の魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、私の身も心も叫びます(詩編八四・二~)。この憧れを語っている。あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、私の神の家の門口に立っているのを選びます。主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません。万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう(詩編八四・一一~)。教会の礼拝は人類のこの憧れを一足先の前味として、経験させてくれます。この歴史の苦難の中で、むしろ大事にしたい希望の根拠です。

 

さて、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、誰か。また、どこから来たのか」(黙示録七・一三~)。この問の答えは、地上の教会で現在礼拝をささげる者たちです。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。今、苦難を通りつつも、キリストが罪を贖って下さったその玉座の前にいて神に仕える礼拝者たちです。聖餐はこの小羊の血を私たちに味わわせてくれます。

 

お気づきの方もおられると思いますが、今日の聖書箇所の後半九節からは、実は七月に既に説教しておりました。その日に、礼拝において長老任職式を執り行い、それに合わせてこの箇所から長老に焦点を合わせて説教しました。丁度本日も、先週の教会総会で選出された方の長老の任職式を執り行います。七月の時には、長老の務めにつき、黙示録から三つの事柄を語りました。今日もこの点については思い起こしていたい。長老の務め、一つ目は、礼拝をささげること。二つ目は、民を執り成して祈ること。三つ目は、天の幻を解説して神の民が目指す方向性を示すことです。

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