詩編一六・七~一一
ローマ六・二二~二三
使徒信条の本日の主題は使徒信条の締めくくりの言葉「永遠の生命」です。永遠の生命と言っても、いつまでも死なない無限の生命という意味ではありません。日本社会は長寿社会になって、ただ長寿では幸せではないと思うようになりました。健康寿命を意識するようになりました。そして、永遠の生命が問いかけているのは、寿命の長さよりもその質です。
今日の説教題を「生の質」という耳慣れない日本語で表現しました。生命の質、生活の質、人生の質の方が日本語としてはこなれていますが、この三つの意味を込めて「生の質」。英語で言うと「クウォリティ オブ ライフ」と言います。これを日本語に直すと三つ出てくる。 「生命の質、生活の質、人生の質」、まず 「生命の質」は何がある方がないよりも生命の質が高いと言えるか、と言いますと、常識的な答えですが健康です。それから「生活の質」は衣食住を保障する財産、「人生の質」はやりたいことが出来る使命を果たす充実感と言えるでしょうか。
私は更に、「関わりの質」があると考えています。二つあって、一つ目は「人との関わり」=人間関係です。人間関係がこじれると辛いですね。いい人に恵まれたという人生でありたい。そしてもう一つは「神様との関わり」です。信仰を与えられて良かったという喜びですね。
そしてこれらの五つの生の質は、人生を生きていく上ではどれも不可欠です。
その上で、使徒信条が、罪の赦し、身体の甦り、に続いて告白する「永遠の生命」とは何か。主イエスがこの直後に捕らえられていく、いわば最後の祈りの中でこう祈っておられます。 「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ一七・三)。父なる神様を知る、主イエス・キリストを知る。知ると言っても単なる知識のことではなく「神様との関わりの質」です。 旧約聖書のあのヨブがこう言ったのも、改めて思えば、神様を知りたいと、神様との関わりを求めての言葉でした。 「この皮膚が損なわれようとも、この身を以て、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。他ならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(ヨブ一九・二六~二七)。ヨブは、財産も健康も奪い取られ友人関係も破綻したのでした。その彼が何を最終的に求めたのか。この私の人生に神はおられるのか、ということでした。彼がここで気付いた彼の人生の目標は、ただ幸せになるということではなかった、むしろ不幸せのどん底から神様を知りたい。この目で神様を仰ぎ見たいということでした。
もう何年も前になりますが、ある患者さんのベッドサイドに伺いました。黄疸でお顔も黄色く、余命もあと数日、起き上がることも出来ない状況でした。そして恐らく、何十年来、日頃は表に出さないままお腹の中にしまい込んで未解決の問題を吐露してくれました。その内容をここでは語ることは出来ませんが、言葉を交わしながら、罪の赦しのこと、自分と自分が一番心に留める人との神様の御前での甦りと再会、そして永遠の生命への確かさを感じて下さったのだと思います。こう言われました。「今私は、健やかさと、安らかさと、穏やかさの中でこうして横になっています」。私には忘れられないお言葉となりました。
今日は旧約聖書から詩編の言葉を選びました。神様を知った詩人の心を表現している詩編です。私は主をたたえます。主は私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭して下さいます。この箇所を別の聖書ではこう訳しています。諭して下さる主をたたえよう。夜ごと、はらわたが私を戒める。心をはらわたと訳しています。お腹の中、最も内なる良心と言ったら良いでしょうか。昼間の喧噪の中では気付かなかった、夜の神様との二人っきりの静寂の中で気付く人生の到達点、それを求める心の奥底からの言葉です。説明抜きにそのまま味わいたい言葉です。私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。私の心は喜び、魂は躍ります。身体は安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます(詩編一六・七~八)。夜ごと、祈りの静寂の中でこのような思いになれるなんて何と幸いなことか。あの患者さんもこうだったのでは?
永遠の命は、死んだ後の話でしょうか。死後の天国の希望もありますが、もうお気付きのように永遠の命は既にこの地上にある時から始まっています。身体は安心して憩いますと言う時、それは今、生きているここでの話です。
主イエスは、父なる神とキリストを知る永遠の命を語られた後、弟子たちやその後の私たちの人間関係を覚えこう祈られました。 「聖なる父よ、私に与えて下さった御名によって彼らを守って下さい。私たちのように、彼らも一つとなるためです」(ヨハネ一七・一一)。更には 「彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ一七・二三)。もとより一つになること、まして完全に一つになるなんて私たちに出来ることではありません。争いに明け暮れる世界の歴史を見れば明らかです。どうしてこんなことが起こるのかと悲しくなる事件も一杯です。でも、キリストを知る永遠の命を信じることにおいて、一つになる私たちの姿をキリストは見ておられます。今は一つでなくても、終末のときには完全に一つになる。そして今、既に一つになり始めているとお互いを思う時、永遠の命はここに始まっています。
パウロはこう語りました。あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着く所は、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(ローマ六・二二~二三)。行き着く所は「キリスト・イエスによる永遠の命」の確信を戴きながら、神の奴隷、神様のものとされて、生活の実を結んでいる。地上の生活の実、自分中心ではなくお互いのことを覚えて生きる倫理的なこともあるでしょう。あの患者さんのように安心して安らかに横になっているという実もあるでしょう。一つとなる希望を持つという実もあるでしょう。
聖餐のパンと杯の恵みに与るとき、私たちはキリストを知り、キリストと一つ。そしてその恵みに与る私たち一同も、キリストから見れば一つ。 使徒信条がその終わりにこの「永遠の命」を約束し、信じるようにと招いてくれていることは幸いなことです。