日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年2月27日 説教:森田恭一郎牧師

「時は満ち、神の御国に生きている」

出エジプト記三・一二
ヘブライ 一二・二五~二九

私たちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう(ヘブライ一二・二八)。今日はこの聖句を味わいます。私たちは感謝すべき事に、揺り動かされることのない御国を受けている。神の御支配が実現している。ヘブライ書が信仰の目を以て見透す世界の様子です。これは私たちにとって意外に響きます。この世には戦争があるではないか。人間の造り出す現実は、神様の御支配とはほど遠い罪の世界なのではないか……。これをどう考えるか、今日の主題です。

 

思い起こせば、主イエスが神の福音を宣べ伝える第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)でありました。福音と言いますと私たちは、こう思っていないでしょうか。十字架における罪の贖いと、復活による死後の永遠の命の希望。福音の内容として間違ってはいないのですが、個人の魂の救いだけを見ている表現です。主イエスの宣教の内容である神の御国=神様の御支配の実現は、個人の魂の領域に留まらず、国、社会の領域、更には歴史の完成に及んでいるものです。そして神の御国を生きるようにと私たちは招かれています。

 

そこで、主イエスがこの地上に来られて公のご生涯でなさったことは、すぐに十字架にかかり、死んで甦られたというのではなくて、それ以前に次のことがある訳です。イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(マタイ九・三五~三六)。私たちの教会で馴染んでいる表現で言いますと、「宣教・教育・奉仕」、そしてそれを支えるのは主ご自身の深い憐れみ=愛であります。この、愛に基づく主イエスのお働きが、神の国は近づいたしるしとなります。主イエスが、教え、宣べ伝え、病をお癒やしになって、もたらされた御国の福音は、個人の魂の領域を越える、もっと広範囲な神の御支配なのです。

主イエスは、主の祈りを教えて下さいました。これが実現すれば他の祈りも併せて実現する祈りはどれかと言えば、「御国を来たらせ給え」です。

御国が来た所では、全ての人々が心を天に向けて「父よ」と呼び、御名を崇め、御心が地にも成り、必要な糧は備えられ、罪の赦しの中に置かれ、悪より救い出され、栄光は神に帰されている。この御国到来のしるしが、宣教・教育・奉仕なのですね。

 

「キリスト教保育」という雑誌があります。何ヶ月か前の記事に、障がい児の施設で働く小児科医の先生の文章が載っていました。抜粋して紹介します。「子どもたちの心と体の成長に関わる私たちは、何に目を向けて歩んでいるのでしょうか。それまで孤独であったり、自分に価値を見出すことが出来なかったり、気持ちを表現することが出来なかった子どもたちやご家族が、コミュニティの中で愛を受け取り、他者を愛することが出来る存在に変えられていく神の御業は驚くべきものです。言葉を使わず表情で表現することも難しいような子どもたちが心の声で語りかけてくるのをスタッフみんなが聞くようになります。そういう子どもたちを通して、私たちの置かれている社会も見えてきます。私たちの社会は、障がいがあってもなくても子どもたちの心が豊かに育つ社会なのでしょうか。神様が一人ひとり違った賜物を下さり、計画と目的とを以てその人生を祝福して下さっていることを知り、お互いが尊重し合う社会でしょうか……。社会やその一員である自分を見つめ直す中で、更にその先にある、神様の栄光が現される『御国の実現』ということに目を向けます。一人ひとりが心の中にイエス様の下さる平和を持つことが出来る御国です。子どもたちに寄り添うことで、社会を見、将来を見、そして御国の実現に目を向ける恵みをいただいています」。

この小児科の先生は、毎日、子どもたちを大切にしない社会の姿を見、争いが絶えない、心が一つにならない社会と人間の姿、その不条理の現実に直面しているに違いありません。でも「御国の実現に目を向ける恵みをいただいています」。それは信仰を通してこそ見る御国の世界です。そして、子どもたちも家族も、事実として御国を受けて生きています。罪深い社会の現実の中で、何故、御国の実現に目を向けられるのでしょうか?

 

父なる神様は、人間の罪と地上の罪深い現実をご覧になって、キリストをお遣わしになるのをやめようとはなさいませんでした。むしろ私たちに近づいてきて下さいました。キリストも、飼い主のいない羊のような人間を憐れみ、罪を受け止め贖うために、十字架を担われました。そして復活なさり、今は神の右の座にあって私たちを執り成していて下さいます。この神の憐れみの御心とその御業に、揺り動かされることのない御国(ヘブライ一二・二八)の現実があります。これは信仰を通して目を注ぎ、受けている御国の現実です。

ヘブライ書は、迫害が止まない中で、だからこそ御国をもたらすキリストの御業を見、その御声を聞くように、そして受けとめるようにと促しています。あなた方は、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい(ヘブライ一二・二五)。キリストは今も、神の右の座から執り成して天から御旨を告げる方(同)です。御国が揺り動かされないのとは反対に、「私はもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう」(同二六節)と、御業を見、御声を聞くのを妨げる罪を揺り動かすようにして罪を払いのけ取り除いて下さいました。

 

それでヘブライ書は、このように、私たちは揺り動かされることのない御国を受けている、こう宣言して、だから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう、と勧めます。旧約聖書では、神様がモーセに言われました。「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」(出エジプト記三・一二)。「仕える」とは、神様に仕える礼拝を指しています。ヘブライ書も、仕えよう、礼拝をささげようと勧めます。恵みを戴いていることをしっかりと受けて、

それ故、感謝し、畏れ敬い、喜びを以て、主イエスの御前に近づきます。他方、主イエスからの恵みと愛を以て、私たち同士が執り成し合う。教会員の交わりです。そしてもう一つ、隣人に仕えていく、隣人に近づき寄り添う。これをヘブライ書は勧め、一三章に続きます。そこにまた、御国到来のしるしが現れてくるに違いありません。

私たちは、キリストの恵みによって救われ、信仰を通して揺り動かされることのない御国を受け、御国の実現に目を向けつつ信仰によって生きていきます。