詩編 六六・一三~二〇
ヤコブ 五・一二
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ七・一四)。神様の約束が、ことごとくイエス・キリストにおいて実現しました。「然り」となりました。そして人間の私たちは、神の約束の実現に対してアーメン、「然り」と応じます。
ヤコブ書は、誓いをたててはなりません。天や地を指して、あるいは、その他どんな誓い方によってであろうと(ヤコブ五・一二)と誓いを禁止しています。それは、誓いを立てる目的が自己保身のためになるからです。「神の名にかけて誓う。だから私の言う事は間違いないのだ」と、自分のための誓いになっている。神を利用して人間に仕えさせる誓いになっているからです。
そのような代表例を幾つか思い起こしてみます。まずヘロデ。占星術の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので拝みに来ました」と言うと、ヘロデはこう約束しました。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」。真っ赤な嘘ですね。拝むどころか、亡き者にしてやる。それが本心でした(マタイ二・一~)。
次はペトロ。ペトロは、主イエスを知らないと否みました。その否み方が激しい。「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。自分を守るために誓いました(マタイ二六・七二、七四)。
十戒は主の名をみだりに唱えてはなりませんと人間を戒めます。みだりに唱えてしまう、目的を外れて御名を唱え誓ってしまうところが問題です。
反対から言えば、みだりにではなく誓うこともある訳で、御名があがめられるように誓うのは良い訳です。幾つかの例から考えてみます。
本日の旧約聖書、詩編六六編一三節から。私は献げ物を携えて神殿に入り、満願の献げ物をささげます。私が苦難の中で唇を開き、この口を以て誓ったように、肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊、雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。彼は苦難の中で神様に、助けを求めて祈る訳ですが、その際に、神殿で献げ物をささげる誓いを立てる訳です。そして一八節から、私が心に悪事を見ているなら、つまり祈りを聴いてもらうため、自分のために、偽って誓っているとするなら主は聞いて下さらないでしょう。しかし、神は私の祈る声に耳を傾け、聞き入れて下さいました。神をたたえよ。神は私の祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。私の誓いは嘘ではなかった、と言っている訳です。ここで大事な事は、一六節~、神を畏れる人は皆、聞くがよい。私に成し遂げて下さったことを物語ろう。誓いが、神の御業を「然り」、神の御業を物語ることに連なっていることです。そして神に向かって私の口は声をあげ、私は舌を以てあがめます。誓いが、自分のためではなく、神の御業を物語る礼拝になっていることです。これが今日、一番、心に留めたいことです。
洗礼者ヨハネの父、ザカリヤは、妻エリザベトが男の子を授かることを天使ガブリエルから聞かされた時「何によって私はそれを知ることが出来るのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」ととっさに「否」、その御言を疑い、御業を否みました。それで、時が来れば実現する私の言葉を信じなかったから、ということで口が利けなくされてしまいます(ルカ一・五~)。ヨハネが生まれてからザカリヤは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました(ルカ一・五七~)。御業を「然り」と物語るために、唇がある訳です。
物語ったと言えば、羊飼いたちです。羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。まるで彼ら自身が、ヨセフやマリアに天使となったかの如くです。羊飼いたちは、天使を通して主が語られたことを否むことはありませんでした。「さぁ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」。羊飼いたちは「否」という姿勢では全くありません。ただ丁寧に考えてみますと、この段階ではまだ「然り」にまではなっていない。「確かめに行こう」という気持ちです。然りと否の間には「まだ分かりません」という段階があってもいい。主が語れたことを語り直しながら、布にくるまって飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を見るに及んで、天使の話した通りだったと、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。この段階では納得して明確な「然り」ですね。
マリアは、羊飼いたちが伝えてくれた出来事を全て心に納めて、思い巡らします。思い巡らすのも、然りと否との間で確かめる作業です。マリアも納得すれば「然り」です。マリアも天使から御子を授かるとお告げを受けて、あのザカリヤと同じように「どうして、そのようなことがあり得ましょう。私は男の人をしりませんのに」と一度は否んだのですが、天使の御言に圧倒されて「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と然りの姿勢を持ちました。その日以来、心して精一杯、御子をお迎えするつもりでおりました。
そうであったのに、現実には、御子なのに家畜小屋で布にくるめて飼い葉桶に寝かせるしか出来ないハメになった。何でこんなことにと憤懣やる方ない思いがあったでしょう。その時に、羊飼いたちを通して天使の話を聞く。この布と飼い葉桶が神の御業に用いられていると、驚き、そして、この夜の出来事の意味を「然り」と言って受け止めることが出来た訳です。もっとも、もしかするとマリアが、本当に本心から「然り」と言えるようになったのは、主イエスの復活の時、また聖霊降臨の時だったかもしれません。その半生を「然り」と「否」の間で問い続けた。そう思い巡らしたからこそ、納得へと人生を導かれたに違いありません。
さて、ペテロのことをもう一度。復活の主イエスがペトロに問いかけました(ヨハネ二一・一五~)。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」。ペトロは答えました。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」。でも三度同じことを問いかけられて、三度目は「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えます。一度目、二度目の答えと、三度目の答えと異なっている点があります。
三度目の答えでは「はい」がありません。「然り」と言えなかった。一番弟子として「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ一三・三七)と豪語して誓約した身でありながら、三度、主イエスを否んだペトロです。人間の側の誓約、自分の誓約の危うさ、もろさを、ペトロは痛感している。だからヤコブ書も、誓いをたててはなりませんと語る。
主イエスの問いかけの背後にペトロは恐らく主の誓約を聴き取りました。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。私に従って来なさい。私があなたを使徒として召し出す。人間を捕る漁師にしよう」。私たちの誓いが成り立つとすれば、それは私たちの決意に支えられるからではありません。それは早晩崩れます。主が誓って下さる主の誓約に根拠があって、その主の誓いに対して私たちが応じる、それが私たちの誓約です。ペトロは、否んだ三度の誓いを一つ一つ打ち消すようにして、主イエスが三度問いかけて下さった幸いを身にひしひしと感じながら、その全てを物語るようになりました。そうやって使徒として立てられました。それが主の誓いを物語る彼の人生です。
ヤコブ書にもどりますと、あなた方は「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。主イエスが「こうだ、然り」と約束、宣言されていることに応じて私たちも、「然り」。主イエスが「こうではない。否」と言われたことについて私たちも、「否」と応える。
そしてもう一つ、私の兄弟たちと呼びかけています。七節から四度、繰り返しての呼びかけです。教会の私たちが、何か課題に直面している時、自分に対しても相手に対しても、どう相互牧会の関わりを持ったら良いのでしょうか。主イエスが「然り」と言われることについては、私たちも「然り」、主イエスが「否」と言われることについては私たちも「否」。まだ分からない、納得が出来ない時には、まだ分かりませんと、時が満ちるまで問い続け、思い巡らし、解答が見えて来るのを祈りながら待つ。お互いがそういう思いに導かれていくように、主の御旨を尋ね求めていくのが相互牧会です。
パウロはこう慰めに満ちた言葉を残してくれました。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで私たちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます(Ⅱコリント一・一九~)。御心の天に成る如く、地にも成っていく。これを私たちは信じることが出来ます。