日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年5月8日 説教:森田恭一郎牧師

「愛でるため、戦いやめる日曜日」

創世記二・一―三
マルコ三・一―五

初めに神は、天地を創造された(創世記一・一)。

これが聖書の最初の言葉です。そして一日目から六日目まで天地をお造りになった様子を描いています。そして七日目、天地万物は完成された(創世記二・一)。そして今日の問題です。なぜ、天地万物の創造は六日目で終わったのに、七日目に天地万物は完成された、となるのでしょうか……。答えを言いますと、七日目の安息日があって、初めて完成になるからです。それならば、どうして安息日があるのでしょう。それが今日の問題です。

 

神様が天地をお創りになられたことを、創世記一章は六日間の出来事として表現しています。そして一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目がセットになっています。

一日目に「光あれ」とおっしゃり、その通りに光をお造りになり、そのことによって闇と分けられました。そこで出来上がったのが、光は光、闇は闇。創造主は創造主、被造物は被造物。神は神、人は人、という秩序が出来上がりました。そして四日目は「天の大空に光る物があって、昼と夜とを分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ」(創世記一・一四)とおっしゃり、その通りに太陽や月、そして星々をお創りになり天の大空に置かれました。

そして二日目に、「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」(創世記一・九)とおっしゃり、その通りに陸地と海が出来ました。五日目に、「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」(創世記一・二〇)と言われ、その通りに鳥や魚が出来ました。

それから三日目には、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」(創世記一・一一)と言われ、その通りに草や樹が出来ました。六日目には、「地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ」(創世記一・二四)と言われ、その通りに動物が出来ました。そして最後に、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記一・二六)とおっしゃって、その通りに、神はご自分にかたどって人を創造された(創世記一・二七)のでした。全ての環境を整えて、人をお造りになりました。

 

これで、天地万物の全ては出来上がりました!であるのに、創世記は、天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され(創世記一・一)と語ります。完成したのは七日目です。なぜでしょう? 続けて語ります。第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった(創世記二・二)。天地創造のお仕事を離れてお休みになりました。でもそれは、六日間のお仕事でお疲れになって休みたいというのではありません。七日目に実はなさったことがあります。この日に神は全ての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された(創世記二・三)。七日目を祝福し、聖別なさって特別な日として取っておいて下さいました。これが安息日、私たちの日曜日です。旧約の時代は、日月火水木金土の七日目の土曜日だったのですが、新約の時代になってキリスト教会は、イエス様が甦られた日曜日を特別な日として安息日にしました。

ここに笛を持ってきました。笛としては出来上がっています。でも笛にとってまだ完成していません。音が鳴っていない。笛として作られた意味がないからです。誰かが曲を奏でてくれると、笛は完成し、安息日になります。

 

さあ、ここで、祝福し聖別されたことについて、イエス様が語られたそのお言葉に耳を傾け、その御業に思いを向けたいと思います。新約聖書の、今日はマルコ福音書です。

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた(マルコ三・一)。この手の不自由な人は恐らく、会堂の後ろの少し目立たたない所にいたのだと思います。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた(マルコ三・一~)。その人は、後ろのほうにいたので、真ん中まで出てくるのには勇気が必要だったでしょう。おずおずしたかもしれません。でも「真ん中に立ちなさい」と言われたイエス様の招きのお言葉に支えられ勇気づけられながら、真ん中へと進み出ます。

この日は安息日でした。人々は礼拝をささげるために会堂に集まっていました。当時の決まりでは、安息日は神様に礼拝をささげるために仕事を休む日でした。お医者さんも安息日は仕事を休んで礼拝をささげます。だから治療は控えます。それである人々は、イエス様が安息日に仕事を休まないでこの人の手を治すかどうか、決まりを守るかどうか、決まりを守らないならイエス様は悪い人です。そう思って注目していました。

 

皆さんはどう思いますか。片手の不自由な人がここにいます。その人の身になって治してあげたいと思いますか。イエス様は、問いかけました。

そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(マルコ三・三~四)。安息日にも戦争して命を殺すことしても良いのですか。神様の御心、イエス様の願うお考え、その答えは明らかです。善を行うこと、命を救うことです! 殺さないだけではありません。生かして救うことです。

であるのに、そこに集まっていたある人々、彼らは黙っていた……。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみました。そして、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元通りになった(マルコ三・五)のでした。イエス様は、手の不自由なこの人を安息日に愛でて下さいました。そして神様の御業が起こるこの日を祝福して下さいました。

手を癒して戴いたこの人は、とても喜びました。自分は命与えられて生まれた。辛い中、この日まで生きてきた。この日、イエス様から祝福を戴いて、生まれてきて良かったと心から思いました。イエス様に有難うと感謝する気持ちになりました。この安息日はイエス様をたたえ感謝する特別な日になりました。神様がこれからも、この私をずっと愛して下さると確信しました。

 

イエス様は言われました。安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある(マルコ二・二七~二八)。安息日こそ、イエス様の御業が起こり、人々はその恵みを受けとめて、イエス様をたたえます。イエス様こそ安息日の主であられることがはっきりします。イエス様の御業が起こり、人間をはじめとする全被造物がイエス様の御名をたたえるとき、天地万物は完成します。イエス様は十字架で亡くなられ私たちの罪を贖い取って下さいました。そして三日目に死人の中から甦られました。それは私たちを新しく創造なさるしるしです。

歴史は六日目から七日目に向かって進んでいるとも言えます。七日目が来ることを、キリストの御業とお甦りは指し示しています。これが、天地創造の由来(創世記二・四)です。

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