イザヤ 四四・二一~二二
ヨハネ黙示録九・一~二一
ヨハネ黙示録からの説教は昨年の終末主日の一一月二〇日以来になります。その時には第八章を読みました。聖書朗読箇所は一~一三節を読みましたが、説教で味わったのは五節まででした。その意味では今日は第八章六節からです。
六節には、七つのラッパを持っている七人の天使が登場し、七節以下、第一の天使から第六の天使まで、天使たちが順々にラッパを吹きます (黙示録八・七~九・一九)。 そして第七の天使がラッパを吹くのは、第一一章一五節です。天使たちが第一から第六のラッパを吹くとどうなるか、審判が起こる。今日は審判の内容の説明は省きます。
ただ、全体をまとめて言いますと、これらの記事は、悔い改めを迫る審判の記事です。三分の一が殺されるとか、五ヶ月の間は苦しめられるとか、読んでみての読後感はあまり心地よいものではありません。でも、三分の一であって全部ではない。五ヶ月間であってずっと続くのではない。何故、部分的かというと、それは残された者たちの悔い改めを促す、警告の審判だからです。
けれども、この箇所の結論は、残された者たちは悔い改めなかった。これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった(黙示録九・二一~九・二二)。審判を生き延びた者たちは悔い改めない。審判だけでは悔い改めや信仰に至らない。これが八章から九章にかけての結論です。
これは私たちにも分かります。叱られてその時は首をすぼめて反省しているかのようにしても、喉元過ぎれば何とやらで、結局は全く反省しない、ということはよくあることです。あるいは、裁判を受けて刑に服して出所しても、全然、更生に至らない。考え方も行状も元の悪人のまま、ということも有り得ますね。人が本当に立ち直るとうのは何に拠るのか、黙示録が現代の私たちにも問いかけているように思います。
話を戻しますが、審判だけでは悔い改めや信仰に至らない。このことを踏まえて、黙示録は第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する(黙示録一〇・七) という次のステップへと展開します。次のステップへと展開する準備として八章、九章がある訳です。これは「人は叱られても悔い改めない。だから神の秘められた計画が必要だ」。六つのラッパの記事は、次への準備としての黙示録の文学的手法です。第一から第六のラッパと共に起こる審判が実際に起こるなどと考える必要はありません。
それで今日は、人は叱られても、審判を受けても悔い改めに至らないとすれば、その者たちがそのまま残るのであれば、悔い改めない者たちの悔い改めないまま勝ちで終わるのか。黙示録は、悔い改めない者たちにはやはり、審判を用意しています。神の秘められた計画の中にこのことも入っているに違いありません。でも、だから悔い改めない者たちは滅ぼされて当然だ、で話が終わる……のではなくて、審判に拠らずに何によって悔い改めが生じるのか、が大事なことになります。
今日の旧約聖書でイザヤが神様からの預言を語っています。思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、あなたは私の僕。私はあなたを形づくり、私の僕とした。イスラエルよ、私を忘れてはならない。私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。私に立ち帰れ、私はあなたを贖った(イザヤ四四・二一~二二)。「悔い改める」の言葉はありませんが代わりに、「立ち帰る」の言葉があります。悔い改めるとは、自分を省みて反省するということではなく、神様の方を向いて立ち帰ることです。そしてここで大事なのは、順番です。「自分が立ち帰れば、それを条件として神様が贖って下さる」ではなく「贖ったから、安心して立ち帰れ」という順序であること。そして立ち帰るとは「私を忘れてはならない」ということです。私たちで言えば、毎週礼拝をささげて罪を霧のように吹き払って私たちを贖って下さった主イエスを忘れない、それが身につくということです。
今日の招詞、招きの言葉に選びました聖句の主イエスのお言葉。 「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ五・三二)。主イエスは私たちをお招きになっておられます。お招き下さること自体が、主イエスへと私たちを立ち帰らせて下さいます。そして立ち帰る。これは私たちの行為、行いですが、これもよく味わってみますと主イエスのイニシアチヴのもとにあることに気付きます。
百匹の羊の譬え、ルカ福音書では主イエスがこう言われました。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ一五・七)。あの時、あの迷い出た羊は何をしたでしょうか。羊飼いが捜し見つけ、肩に担いで家に帰る。あの羊自身は自ら何もしていません。
次の、無くした銀貨の譬え話ではどうでしょうか。女の人が、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜しました。銀貨自身は、銀貨ですから自分では全く何もしていません。それでも言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの前に喜びがある(ルカ一五・八~)。
続く放蕩息子の譬え話。あの弟は父親の所に立ち帰ってきたように見えますが、そうではありません。有り余るほどパンがあるから帰って行っただけです。弟よりも先に父親が息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しまし、「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、居なくなっていたのに見つかったから 」と祝宴を始めました(ルカ一五・一一~)。弟の思いとしては「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」と言うつもりでしたが、そう言わせてもらえなかった。一九節と二〇節を比較すると分かります。「お前は、雇い人なんかではない、私の息子だ!」。それ程に一方的に、かつ圧倒されて気づいたら祝宴に招かれていました。
悔い改める、立ち帰るとは、本人の業が立ち入る隙も無いほどに一方的かつ圧倒的に、その招きの御手に捕らえられることです。ヨハネ黙示録が語る「神の秘められた計画」には、悔い改めない者には審判があるでしょう。が、悔い改めない者が一人も残らないように、主イエスは悔い改めさせるために来て下さいました。主イエスの罪人への招きがあり、その招きは一方的かつ圧倒的で、気付いてみたらその御手の中に自分があったということになります。それは審判によってもたらされるものではありません。今日の黙示録でヨハネが語る通りです。そして審判ではなく、愛の迫りがあって悔い改めへと私たちを招きます。地上に生きている内に他の人たちに一歩先んじて、この愛の迫りに包まれた者は幸いです。そして最終的に全ての人が悔い改めるようにして下さる、それが、「神の秘められた計画が成就」することに含まれていると信じます。