創世記 三・九
マタイ二八・一~一〇
神が起こされる「神の出来事」があります。何よりも、主イエス・キリストが死者の中から復活された。神の出来事そのものです。神の出来事は、理性、判断、疑い等の人間の側の現実を超えて、神様が聖霊の導きを以て起こす、神の側からの出来事、神からの現実です。この日、婦人たちが復活の主にお目にかかり、弟子たちも復活の主に会うことになる。これも神の出来事です。そしてキリストはこの出来事へと私たちを招きます。マタイ二八章は、この神の出来事を語ってやみません。
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。二人の婦人たちは、三日前に十字架から取り急ぎ引き降され墓に仮安置された主イエスのご遺体に香油を塗るために、足取りも重く、
墓に来ました。すると、大きな地震が起こった。聖書では地震は神の臨在のしるしです。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。天使が夢に現れたというのではありません。神の出来事として、天から降って来て近寄って来たのです。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。未知との遭遇です。恐れないではいられません。番兵たちは,恐ろしさの余り震えあがり、死人のようになった。そうだろうと思います。恐れると言えば婦人たちだって恐れました。自分たちもどうなってしまうの? と不安に襲われました。
そこで天使は婦人たちに言った。「恐れることはない」。これは、慰めと勇気づけの言葉です。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。婦人たちは一瞬、疑ったかもしれません。そんなことあるの? でも、主の復活の知らせを聴き取り、ここから慰めと勇気を受け取らねばなりません。
天使はたたみかけるようにして、婦人たちにやるべきことを託します。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」。聴くべきことを聴いて婦人たちは疑うより信じました。不安に慄くより不思議にも喜びが沸き上がってきました。婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
因みに、私事ですが……、小学2年生だった時、飼っていたポチが突然姿を消してしまいました。何日も家族で捜しましたが見つかりません。もう諦めかけていたある日、トボトボと床屋に出かけた時の事、待合室からふと外を見ると、ポチが座ってこっちを見ているではありませんか。散髪が終わるまでそこにちゃんと待っていてくれました。 ポチが戻って来た! 早く伝えたい。私は嬉しくなって一緒に家まで走って行きました。床屋から歩いて帰るなんて…、走らずにはおられません。走るエネルギーが湧いてきました。
さて婦人たち、十字架で死んでしまわれたのだ、そう諦めていた彼女たちに、思いがけない知らせが飛び込んできました。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。ご復活なさったんだって! 早く伝えたい。自分たちもイエス様にお会いしたい。エネルギーが強烈に湧いてきます。婦人たちはワクワクして走ります。すると一緒に喜んで下さるかのように、主イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた。ただの朝の挨拶ではない、「そうだ、喜ぼう」という意味です。婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
主イエスは、喜ぶ彼女たちに使命を告げます。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる」。先に天使たちが婦人たちに語ったことと同じ内容です。天使は、主イエスの御心の通りに告げていた訳です。天使も言いました。弟子たちにこう告げなさい。「あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。「そこで」というのはガリラヤ。山上の説教を語られたガリラヤ、病を患う多くの人たちを癒されたガリラヤ、「私はこの岩の上に教会を建てる」と約束なさったガリラヤ。そのガリラヤに先に行っているから、そこで会おう。待ってるからみんな集まれ! 主は呼びかけ招いて下さる。
主イエス・キリストにお目にかかることの出来る「そこで」という場所がある。あの時の弟子たちに約束されたその場所はガリラヤでした。あなたに会いたいと主イエスが約束して下さる場所、そして時。それは主イエスが聖霊の導きの下に定められる事柄です。人間には予測できない神の出来事です。今の私たちにとって「そこで」という場所は教会だとまず言って良いでしょう。教会に集っている限り、主イエスとの出会いを経験する。思いがけなく自分の行く手に主イエスが立っておられて「お早う、そうだ、喜ぼう」とこの自分に語りかけて下さる。それはまず日曜日の教会での礼拝の時です。あるいは、礼拝の恵みを思い返しながら過ごす週日のある日、ある場所かもしれない。いずれにせよ、そこで、主イエスが私に会って下さる。そこで会おうと約束しておられる。
この約束に促され、二人また三人、四人、五人と集まることは大事です。集まれば、主イエスに思いを向けながら語り聴き合うことが出来る。みんながいるなら「私も行きたい」、そう思うことが出来る。集まって祈っている所に聖霊も降る。
今、残念ながら教会のこの礼拝に集まることが出来ません。止むを得ないことです。場所は離れていても、聖書の言葉、その解き明かしを共にしながら、心は集まることが出来る。心は共に賛美をささげることが出来る。心は祈りを合わせることが出来る。そう自覚し信じます。今おられる夫々のご家庭の場所で、皆さんは独りではない。
アダムとその妻は、食べてはいけない実を採って食べてしまい、園の木の間に隠れました。そのような彼らに、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」。主なる神は彼らに隠れたままでいて欲しくなかった。会いたかったのです。彼らを放っておかなかった。あの時「どこにいるのか」と呼びかけて下さらなかったら、神が園の中を歩く音が聞こえる度に、彼らは逃げ隠れ、一生涯、逃亡者になってしまったことでしょう。
その後の旧約の歴史に於いても、主なる神は、繰り返し呼びかけました。 「立ち帰れ、イスラエルよ、私のもとに立ち帰れ。呪うべきものを私の前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない」(エレミヤ四・一)。アダムに対しても、イスラエルに対しても、放ってはおかない…。
主イエスが、弟子たちにガリラヤで会おう、私たちに教会で会おう、教会に集えなくても各々の家庭の礼拝で会おう、と呼びかけて下さる時、それは主イエスの「私のもとに立ち帰れ」という招きです。「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会うことになる」。実は一つ、天使と異なる言葉を語られた。天使は「弟子たちに告げなさい」。主イエスは「私の兄弟たちに言いなさい」。十字架の前の晩、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げ去った。復活の日の夕方になっても家の戸に鍵をかけて隠れていた。主を裏切った、不安に怯えるそのような彼らに「私の兄弟たち!」。いわば家族の一員として高らかに呼びかけて下さった。それは、弟子たちの罪を贖う十字架の出来事、救済の出来事が生じたから。神の出来事の故です。これは皆さんのためのものでもあります。
主なる神はエレミヤに続けてこう語りました。
もし、あなたが真実と公平と正義をもって 「主は生きておられる」 と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。そうです。主は生きておられる。私たちを、人類を放ってはおかない。神様ですから、生きている者にも死んだ者にも働きかけることが出来る。そして「私の兄弟たち」と呼びかけて下さいます。会って下さる。あの婦人たちが恐れながらも喜んだように、私たちも感染症拡大に慄きながらも希望を持っていい。また持たなければならない。
もう一つ、困難の中にある諸国の民にも及ぶ祝福をキリストは備えておられます。それも私たちを通して。この地に建てられている教会を通して、キリストの兄弟として救済の希望を掲げて生きている私たちを通して、祝福が地域にも及ぶ。感染症を超えて「神の出来事」が諸国の民に及びます。
祈り
主イエスは墓にはおられない。復活なさったのだ! 主の御名をたたえます。放っておかない、会おうと約束して下さいます。私たちも「主は生きておられる」と誓い、告白します。人間の死を遥かに超えて新しい命をもたらす主イエスの甦りの「神の出来事」を信じて、不安に慄きつつも希望に歩む者とさせて下さい。感染症と闘う全ての人たちのために祈ります。心身共に支えて下さい。