出エジプト記一二・四二
Ⅱコリント 一一・二八~二九
『A・D・ヘールに学ぶ』に「活気の一八八四年」(明治一七年)という小見出しの記述があります。その年は、現在の大阪女学院が創立された年ですが、ヘールがこの年にミッションに宛てた報告が引用されていますので、まずご紹介します。 神は我々に我々の信徒の数を二百%成長させ、二つの教会堂と地方の三つの新しい定着伝道所とを与えて下さり、牧師を志す幾人かの将来有望な青年を教えることをお許しになった。神は教会に、より強い霊的生命と、より深い正義の熱望を与えられた。神はミセス・ドレナンのもとに、立派な学校を与えて下さり、我々が思い巡らしている、全ての上に豊かな祝福を下さった(九二頁)。
これは、政府が信仰の自由を制限するようになる明治憲法や教育勅語が発布される前の、キリスト教が広まった時期の記録になります。
著者の中山昇は、以下のように記述を続けます。しかし、この喜びの陰には並々ならぬ心労のあった事を見逃してはならない。
疲れて足を引きずる山路、二十トン乃至は四十トンの小さな沿海汽船に揺られての船酔い、いろんな苦労の苦い杯は、主なる神のみの知りたもう所である。ある夜、床に就く前の静かな祈りの時、パウロ書簡を読んでおられた先生は、突然顔を上げて、夫人に言われたそうである。「私たちは、かつてパウロが、クリスチャンたちと共に経験してきた全てのことを経験させられているのではないだろうか」と。諸教会や学校への、このような心遣いあっての実りであった。
活気の年、伝道の成果が強調されるこの一八八四年に至る背後に、宣教師の知られざる並々ならぬ心労と心遣いがあった訳です。
パウロがしてきた経験とは何か。その苦労を記す箇所をⅡコリント書から選びました。一一章二三節途中から。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較出来ないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。以下続きます。そして二八節、この他にもまだあるが、その上に、日々私に迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。今日、これらの「やっかい事、心配事」について語る暇はありませんが、この手紙だって、その解決と困難の中にある人たちの慰めをと願って書き送った手紙です。当時のことです。距離が遠く離れ、そこに向かうには時間もかかる。問題を知った時には遅すぎてもう手遅れ、ということもあったでしょう。教会のことや関わる人たちのことが未解決のままパウロの肩にのしかかってくる。ただただ一緒にもたつくしかない。だからこう言います。誰かが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか(二九節)。
河内長野教会も一八八四年よりずっと後になってから、ヘール宣教師が認可申請をして、富田林講義所と共に設立認可が下りたのは一九〇六年、しかしその後の歩みは順調ではなかった。牧師不在の時があり、教勢も伸びず、今日の礼拝は長野で、あるいは富田林で、合同でせざるを得ない時も続いたようです。そのような教会をヘール宣教師は心配しなかったはずはありません。
戦争中も大変だったに違いありません。さらに教会の心配事は、外部から降りかかってくる困難だけではありません。戦後になって河内長野教会が経験した困難は何と言っても、内部の齟齬の出来事でした。清教学園との関係を巡って、私の言葉で言いますと伝道の方法論を巡る対立でした。その結果、金剛教会が誕生しました。それは、みんながお互いに納得して株分けをして子教会が誕生したというような喜ばしいものではありませんでした。金剛教会に行く人、河内長野教会に残る人、あの時、誰もが誠実に生きた。悪意の人はいない。でも分かれた。そしてどちらにもついて行けず教会のゴタゴタに嫌気がさして教会から去って行った人も……。 開き直るように思われるかもしれませんが、教会に躓かせてしまうようなことは、いつの時代でも起こることです。願わくば、教会に躓いてもキリストの福音から離れないでほしい。ただキリストから離れないためには、教会から離れないことが不可欠です。それが教会の不思議な所で、キリストに礼拝を献げるキリストの体なる教会から離れると多くの場合、信仰を失っていきます。だからどのような時にも耐え忍んで教会につながっていることが求められます。それは、キリストを見上げるように
と信仰が試される時でもあります。
先週、まとめ役の皆さんにお残り戴いて説明会を致しました。次年度やってみたいこと活動してみたいことに向けて必要な予算申請と、次年度の担い手についての説明会でした。ただその内容は随分ストレートな説明でもありました。説明くださったのが会計実務にも携わっている方でもありましたので、近年赤字が続き、教勢も振るわず、担い手も厳しいという内容でした。これも今の河内長野教会の心配事であると言えるでしょう。何か、暗い話というか、気持ちが弱くなるような話でもありました。
それで、パウロが教会の心配事に直面したとき、誰かが弱っているなら私は弱らないでいられるでしょうかと思ったときに、パウロはどうなったのでしょうか。続けてパウロは語ります。誰かが躓くなら、私が心燃やさないでいられるでしょうか。パウロは弱らないでいられない中で、その弱さの中にそのままになってしまったのではなくて、心燃やさないでいられなかった。それは弱さがなくなったというのではありませんでした。弱くさせる原因を離れさせて下さい(Ⅱコリント一二・八)、取り除いて下さいと祈り求めると共に、むしろ大いに喜んで弱さを誇ろう(同九節)となりました。なぜなら、人は弱い時こそ、恵みを受け入れ、神様の力が発揮されるからです。それはキリストがそうだったからです。神の御子たるお方が十字架に付けられ死んでしまわれる、なんて人々から見れば、実に弱々しいお姿です。でもそこに、実は神の力が働いていて、十字架の死はただの死ではなく、「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ二三・四六)と祈られながらのキリストの死は、人の弱さを身に受け罪を代わりに背負う贖いの死になりました。聖餐に与るとき、思いを深めます。そのように祈って亡くなられたキリストのお姿とキリストの死は、実に強いキリストのお姿と十字架です。神様は、私たちの弱い時にも寝ずの番 (出エジプト記一二・四二)をして助け導かれます。
先日のご講演で土橋さんがこう語られました。助けてもらうのは大切だ。うまく依存出来る事が本当の自立だ、と。「受援力」と表現されました。地域のみんなが助けられ合う訳です。もちろん神様に助けて戴きます。
それからもう一つ、過日の祈祷会で、河内長野教会の心配事、会計が厳しいとか担い手がいないとか、それを覚えて祈祷課題を共有して祈りました。その時ある方がこう語られました。一二〇周年を迎える準備にあたって、実行力をもった若い人たちが育っている、また若い人たちの新しい発想に気付かされる、と。若い人たちの心が燃えている。この若い人たちのこれからの活躍を祈りました。また年配の方々は、教会の心配事があるからこそ、礼拝の恵みと教会の交わりを楽しみつつ、礼拝の出席と祈りを以て心熱く支えて戴きたく思います。そうやって教会の私たちが夫々の役割を担い助け合いながら、助けを受け合いながら、どの世代の人たちもそのように用いられて、イエス・キリストの恵みの力が、私たちにも発揮される。そう改めて確信するものです。