詩編一一三・一八―一九
ガラテヤ五・一、一三
平和である、それは何があるそう言えるのか。幾つか述べてきました。混沌ではなく秩序が保たれていること。分断がなくバラバラにされずに共に一つにされていること。殺さないで生かす命の保証があること。そして今日は、束縛されず自由が守られていることに思い巡らします。
自由には二つの側面があります。それは、~からの自由と、~への自由ということです。ルターも『キリスト者の自由』という著書の中で「キリスト者は全てのものの上に立つ自由な君主であって、誰にも服しない」。同時に「キリスト者は全てのものに仕える僕であって、誰にも服する」と一見、正反対のことを語っていますが、これも自由の二つの側面を表していると言えるでしょう。
まず、~からの自由。奴隷状態、束縛からの自由です。主イエスは御自身の働きをお始めになるにあたって、御自分の働きをイザヤ書六一章から引用しながらお語りになりました。「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ四・一八)。
同じルカ福音書に、レギオンという名の人が登場します。この男は長い間、衣服を身につけず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。この人は何回も汚れた霊に取り憑かれたので、鎖で繋がれ、足枷をはめられて監視されていた(ルカ八・二七~)。そして、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。主イエスはこの人を解放します。この人は、服を着、正気になってイエスの足下に座っているようになります。
ここを読むと何か現実離れした出来事で、自分には関係ないと思いたい訳ですが、むしろ、この人の正気になっている姿を見た人々が恐ろしくなって、主イエスに出て行ってもらいたいと願ったのですね。何故「良かったですね」と一緒に喜べないのか。ここでは、主イエスが追い出した悪霊が豚に入ることを求めて豚が死んでしまった。豚を飼う人にとって大きな経済的損失になると、主イエスに出てもらいたいと願った。もっともなことでもありますが、この人々もまた、足枷や鎖ではないけれども何かに捕らわれてしまっている。
思えば、戦争が起こるのも、経済的理由であれ何であれ、もっともらしい理由がつく。そして戦争になれば、戦場では逃げることも出来ず、捕らえられ、民間人でさえ捕虜みたいに監視され、殺されてしまうことは容易に起こる訳です。なぜ戦争を起こし、人々を捕虜にするのか。捕虜にする人たちの方も、何かに捕らわれているからだ、と言えます。見るべき事が見えなくなる。
このような全ての立場の私たち人間に、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるために遣わされて来て下さった。
パウロはこれをこう語ります。この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度と繋ながれてはなりません(ガラテヤ五・一)。~からの自由を語っています。
自由。次に、~への自由について。ある奴隷の話を聞いたことがあります。生まれながらに奴隷であったその人が、ある篤志家によって主人から買いとられて「君は自由になったよ」と解放されたのですが、それでどう生きるか、本人は分からずに、また結局もとの奴隷になってしまったという話です。このような話は極端ですが、自由というのはただ解放されたというだけでは、生きる方向性が出てこない。あるいは、せいぜい、ただしたい放題のわがままな生き方になる。
そこで、~への自由が大切なこととなります。
先ほどのレギオンという人、正気になった後のことを主イエスがお示しになりました。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(ルカ八・三九)。これはキリストが自由の身にして下さった(ガラテヤ五・一)ことを証することに、あなたの人生を用いてご覧なさい、と生き方をお示しになりました。この人にミッションを与えて下さったのです。この人は、ただ鎖から自由になって解放されただけなら、どう生きて良いのか分からず、空しく生きるだけになったでしょう。でも、使命を与えられて、そこに向かう自由の中を生きた。
パウロは語ります。兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい(ガラテヤ五・一三)。仕えるというのは奴隷の姿ですが、奴隷と異なるのは強制されてではなく、本人の自由、自発性に於いて他者のために仕える。そこに召し出された。
召されるというのは使命です。召命と言います。伝道者になることが召命とよく言われます。レギオンも伝道者へと召されたとも言えます。
でもそれだけではありません。この世の仕事につく。これもキリストの召されてこの仕事に就いたと使命を見いだせる人は幸いです。互いに仕える。社会というのは本来そういうものです。レギオンだって通常の生活をしながら、しかし私は自由にされた恵みを感謝しながら、そのようにして証に生きたのではないでしょか。
そして私たちは、恵みによって教会に召された一人ひとりです。 私たちは教会で使命を与えられている。キリストが私たちを自由にして下さったことを知る使命がまずあります。礼拝をささげ祈りをささげる。そして教会においてそれを分かち合う使命があります。教会の交わりや奉仕がそれです。そして教会から遣わされて分かち合う使命。家庭にあって、また社会における仕事にあって、愛によって互いに仕える使命。キリスト者の自覚を以て自由の中を生きる。
そして、そういう私たちの姿は平和に生きる姿です。