日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年7月4日 説教:森田恭一郎牧師

「希望への新たな一歩」

民数記一八・六~七、二〇
ヘブライ七・一一~一九

私たちは、この希望によって神に近づくのです(ヘブライ七・一九)。今日のヘブライ書は、神に近づくのは希望によってであると語っています。 ところが、旧約のイスラエルの民は希望以外のもので神に近づこうとしていた。希望以外のものとは、今日の箇所の表現で言いますと、レビ系統の祭司制度とそれに基づく祭儀律法です。

イスラエルでは十二部族の内、レビ族の者が祭司に立てられて、動物の犠牲をささげて神殿で礼拝を司った。私はあなたの同族であるレビ人をイスラエルの人々の中から選びとった。彼らは、臨在の幕屋の作業に従事するために、主に属する者としてあなたたちに与えられた者である(民数記一八・六)とある通りです。

それによってレビ人が目指すべきことは、作業に従事しなければならないという祭儀律法を守る事の向こうにあることでした。それは、主はアロンに言われた。「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。私が、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である(民数記一八・二〇)。向こうにあるもの、それは神ご自身です。彼らが受ける割り当ては神ご自身。意外な言葉です。思えば、新約に生きる私たちも信仰による割り当ては神ご自身です。神に近づくというのも同じことです。

でも旧約の制度では人が完全な状態に達する(ヘブライ七・一一、一九)ことは出来なかった。一つには、旧約のレビ族の祭司たち、祭儀の規定を守って正確に作業に従事する事に意識が向いてしまって、割り当ては神ご自身というこの大事な点を見落としたからです。

もう一つには、レビ族とは言え祭司は結局は罪人でしかないし、その祭司がささげる動物の犠牲も不完全で、繰り返しささげる必要があった。一般の人たちも、一度犠牲をささげてもらえば、後は完全な人間になれる訳では全然ない。祭司も人々も、神に近づけるような人間にはなれない。

 

ヘブライ書記者は、レビ族出身ではない全く別の、メルキゼデクという祭司の記事が旧約聖書にあること、そしてこの不思議な永遠の祭司メルキゼデクがキリストを証していることに気付いて感動した。主イエスはユダ族です。それで、レビ系とは別の祭司、イエス・キリストが立てられて、この罪のないお方がご自身を私たちの罪の贖いのためにささげて下さった。希望の根拠となったのだ、この希望によって神に近づくのですと、ヘブライ書は私たちに感動を以て宣言しています。

 

今日の説教は「キリストが根拠となる希望によって神に近づく」ことを念頭に置きつつ、祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです(ヘブライ七・一二)。 ある事が変更されると他のことも変わって行くはずだ、というこの聖句から、今日の総会のことに思いを広げます。

総会は、どういう教会を形成しようとしているのか、御前に報告し、みんなで共有する機会でもあります。言うまでもなく教会の主はキリストですから、主の栄光が称えられる教会、主の御心が成る教会を目指します。私たちの教会がどのような時に神の栄光をたたえられるだろうかと考えますと、一つの言い方ではありますが「希望の故に教会の皆さんが生き生きしている教会」であるなら、神の栄光をたたえるでしょう。

この度、長老会は、長老の定数を減らすとか二期六年務めたら一年は休みにするなどの制度の改定を提案しています。今回の改定による変更は新たなものを生み出すに違いありません。

例えば、定数を減らせば、長老だけでは担いきれない。皆さんの活躍が不可欠になります。一年休みにすれば、その分、別の人が新たに関わることにもなり得ます。制度を変更するだけでどれだけ生き生きした教会共同体になるのか、上手く行くか、やってみなければ分からない所はありますが、方向性を皆さんが理解し祈りを共有して下されば、聖霊が支えて下さり、新しい歩みになります。長老は長老の務めを果たしつつ、みんなが育ってみんなが生き生きする共同体を目指す。教会のささやかな夢です。この度の変更が、目指す方向性は失わないで、みんなで新しい一歩を歩み出すことへと展開するに違いありません。

 

生き生きしている教会共同体の経験が育まれるためには、教会の皆さんの賜物がもっと活かされるようになる制度が本当に必要です。極端な言い方しますと、あくまで極端ですが、これまで長老がよく活躍して下さいました。とっても有難いのですが、敢えて極端に言いますと、長老だけが生き生きしていることになりかねない。具体的には各々の長老が部の働きを担うような制度になっている。その分、教会員の皆さんが長老にお任せになってはいないか。手を出しにくくなっていないか。制度を変更して、教会の皆さんがもっと生き生きすること、その可能性を拓く制度が必要です。みんなで教会の夢を共有し、そして課題を乗り越えて行きたいです。

例えばこんな課題があります。これからの高齢化に伴い、教会の礼拝に出席できない方々が増えて来るでしょう。その方たちが、お気持ちが教会から離れず、神に近づくという方向の希望を以て生きられるようにする。これは教会の夢の一つではありませんか。この夢を実現し続けるために「希望によって神に近づく」、これを、み言を携えながら届け、分かち合いたい。この営みを牧師が一人でするとか、長老だけでする以上に、みんなでする教会共同体を目指したいのです。それによってご本人が、牧師からも長老からも教会の皆さんからも忘れられていないと感じて戴ける。この実体験を通して、キリストからも忘れられていない、神我らと共に在ます、と一層確信するに至る。河内長野教会は、この夢を相互牧会の制度的な課題として掲げています。

他にも例えば、若い人への関わりはどうでしょう。清教学園幼稚園や聖愛保育園から親子ご家族を招きたい。中高の生徒たちを招きたいと願っています。家族友だち礼拝を試みています。これも、牧師が一人で頑張っても空回りするだけです。長老が関わろうとしても年が違い過ぎて手を出しにくい。やはり同世代の子育て世代や学生さんたちの協力が不可欠です。「神が愛したもう」という聖書の真理を、同世代の教会のメンバーとの関わりにおいて、園児、生徒、ご家族に届け分かち合えるようにします。説教だけ仮に良くても足りない。同世代の方たちが声を交わして「今日良かったね」と分かち合ってくれたなら、あるいは分かりにくかった所を「こういうことではないかな」と補って下さったら、来て下さった方が、同世代のメンバーたちを通して聖書の言葉を生きた言葉として味わい、教会に行って良かった、また行ってみたいとなり得るでしょう。ここには、来て下さった方と関わる共同体がある訳です。そのために教会の他の人たちも周囲から若い同世代のメンバーたちを周囲から包むようにして応援する教会共同体でありたい。そのメンバーはみんなです。

 

ヘブライ書は教会のメンバーを励ましています。キリストが大祭司になって下さったことにより、以前の祭司制度は変更になった。それで一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。私たちは、この希望によって神に近づくのです(ヘブライ七・一九)。「私たちは」と呼びかけて、希望によって神に近づく経験を育む共同体を一緒に形成しようと励ましています。

この後、聖餐式です。聖餐式が現わしているのは、キリストが希望の根拠を据えて下さったということです。この希望によって神に近づくのが出来るということです。それは、キリストの御心です。キリストが河内長野教会にも希望を備えていて下さると信じます。この度の変更は希望への新たな一歩です。

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