日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年12月12日 説教:森田恭一郎牧師

「天を裂いて降って下さい」

詩編 一三〇・五~八
マタイ一・一八~二五

ろうそくの灯火が三本。今日は、待降節第三主日です。イエス・キリストを待ち望みます。

マタイ福音書の一番初めには系図が載っています。自分のお父さん、そのお父さん、またそのお父さんは誰?と辿っていくのが系図です。それを最初から記しているのがマタイ福音書の系図です。アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図(マタイ一・一)。それで一つ問題です。何故、「アブラハムの子ダビデの子、イエスの系図」となっていないのだろう。

「イエス・キリスト」。これは名前でしょうか…?  私で言えば、森田恭一郎、これと同じですか…? 違います。イエスは名前ですが、キリストは名前ではありません。どういうことかと言いますと、例えば、皆さんは私を、森田先生と呼んで下さいます。「先生」、これは私の名前ではありません。ですから 森田さんは先生です という意味になりますね。ですから「イエス・キリスト」も、イエス様はキリストです、ということになります。そしてキリストとは救い主という意味ですから、イエス様は救い主、ということです。だから、キリストの系図です。

今日の聖書の最初にも、イエス・キリストの誕生の次第は(マタイ一・一八)とあります。系図の後の文章として、そのイエス・キリストの誕生の次第は…と、元の文章はなっています。マタイ福音書は、救い主の誕生の次第を語りかけたいのですね。

という訳で、待降節、救い主=キリストを待ち望みます。今日の旧約聖書、詩編一三〇編も、待ち望んでいます。私は主に望みを置き、私の魂は望みを置き、御言葉を待ち望みます。私の魂は主を待ち望みます(詩編一三〇・五~)。

しかも切なる思いで、待ち望んでいます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。

どういう主を待ち望むのでしょうか。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを全ての罪から贖って下さる。交読詩編の三節以下も。主よ、あなたが罪を全て心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。罪を贖い赦す、そういう救い主を待つ。

 

先程、「キリスト」の意味をお話しました。それでは「イエス」の意味をお話しましょう。名前なのですが、意味があります。私の友人に唯男さんという名前の人がいます。唯一の男と書きます。その人は自己紹介の時に、私は唯の男です、と言ったりもしましたが、唯一の男であれ唯の男であれ、名前を読めば意味が分かる。「イエス」も名前ですが意味があって「主は救う」という意味です。ですから、イエス・キリストというのは「主は救う、という救い主」。同じような意味の言葉を重ねています。天使はヨセフに夢で現れて、こう言いました。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(マタイ一・二一)。主が罪から救うから「イエス」様なのですね。

 

主を待ち望む。当時の人々は、救い主が来て下さる仕方について、例えば雲に乗って天から降ってくる、と考えたりしました(ダニエル書七・一三参照)。でも、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ一・二〇)。ヨセフさんは最初、マリアに赤ちゃんが宿っていることに戸惑いましたが、天使が告げて下さったので、聖霊によって宿って生まれてくるのだ。そう、思い定めることが出来ました。そしてイエス様の誕生をヨセフさんも待ち望みました。

ですから生まれてくる赤ちゃんは、唯のイエス様ではありません。唯お一人、唯一の救い主キリスト、神の御子です。そこでマタイ福音書は、イエス様誕生の意味をこう語りました。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である(マタイ一・二三)。我々と共にいて下さる神、神の御子、我々の罪を贖い、罪を赦す救い主のイエス様を待ち望みます。

 

ところで皆さんは、毎日の生活の中で待ち望むこと、ありますか? どんなことを待ち望みますか……? 例えば、保育園で、お父さんやお母さんがお迎えに来るのを待ち望みます。

それから皆さん、反対に待っていてくれる、待たれることはありますか……。例えば、朝、保育園の先生は「○○くん、○○ちゃん、お早う、待ってたよ」と笑顔で迎えて待っていてくれますね。

 

イエス様も皆さんを待っていて下さいます。私と一緒に共にいてくれるかな、と待っていて下さいます。招きの言葉で読んだ箇所をもう一度。父よ、私に与えて下さった人々を、私のいる所に、共におらせて下さい(ヨハネ一七・二四)。私たちがイエス様と共にいるようにということですね。

それは、天地創造の前から私を愛して、与えて下さった私の栄光を、彼らに見せるためです。栄光を見せるためにお待ちです。栄光とは、神様が神様であられるということ、イエス様が唯の人ではなく、神の唯一の御子、キリスト、罪からの救い主であることが明らかになるということです。この栄光を見せてあげようと、イエス様は私たちを待っていて下さいます。

キリストはクリスマスに、わざわざ天から降りて来られます。それは私たちと共にいて下さるためですし、そのお蔭で私たちもイエス・キリストと共にいることが出来ます。

そして「共にいること」が宣言される所が、教会です。教会の礼拝で、神は我々と共にいて下さいますし、我々、私たちも教会に集ってイエス・キリストと共にいることが出来る訳です。