詩編 五〇・一五
マルコ一五・三三~四一
イエス様は朝九時に十字架に付けられ、午後三時に、大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です(マルコ一五・三四)。イエス様の死の苦しみは、十字架に付けられた体の痛み、その苦しみもありますが、何よりも、父なる神様に見捨てられる苦しみ、怖さでありました。 人は、辛いことや苦しいことがどれ程あっても、心の奥底で、このようなこの私を神様は知っておられる、神様はお見捨てにならないという希望を持っています。であるのに、イエス様はそうではなかった。これは、本当は罪人が負うべき苦しみですが、イエス様が代わりに負って下さった。なぜならこの見捨てられる苦しみは、人間には耐えられないことだからです。敢えて言えば、神の御子だからこそ受けとめ得た、究極の苦しみです。そして、この苦しみをイエス様が負って下さったからこそ、私たちは最早、神様に見捨てられない救いの確かさがある訳です。 それにしても、人は地上の人生が終わる最期の時に大声で叫んで亡くなる人はいるのでしょうか。普通はいません。戦争で命を落とすとき、爆弾で体が裂かれるその痛みのせいで大声を上げるかもしれません。そしてその時に上げる大声、その気持ちは敵を憎む大声でしょうか。いや、助けて下さいという叫びなのではないでしょうか。たとえ憎んでも憎んで人生を終わりたいと思う人はいない。救われて終わりたい。相手も救われて欲しい。 イエス様の先程の叫び、「なぜ私をお見捨てになったのですか」、これは神様に見捨てられる真っ暗な暗闇を覗き込み吸い込まれて落ちていくような、人間には耐えられない怖さの叫びです。そしてイエス様は、もう一度、大声を出して息を引き取られた(マルコ一五・三七)のでした。この時も大声を出して息を引き取られて、静かに眠るようにして息を引き取られたのではなかった。 この大声を思いながら思い起こしたい詩編の聖句があります。「それから、私を呼ぶが良い。苦難の日、私はお前を救おう」(詩編五〇・一五)。イエス様はこの時、恐怖の叫びを越えて、憎しみを込めた叫びでもなく、「我が神、我が神」、ただひたすら父なる神様を呼び、父なる神様に思いを集中していく大声を上げたに違いない。思えば人は、例えば、家族のこと宜しく、と思いますが、遺された人たちへの思いを語った後は、自分自身は、この世のことは超越していくのではないでしょうか。超越して自ら神様のようになるというのではなく、ただひたすら御前に招かれ神様に向かう、神様を呼ぶようになる。いや、神様を呼ぶ、なんて控えめな言葉ですね。こういう聖句も覚えていたい。詩編一〇七編六節の御言葉です。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、
主は彼らを苦しみから救って下さった。
叫んでいます。最大の苦難の中から、イエス様は大声で叫ばれた。大声で叫んで良いのです。主に向かって叫ぶ。イエス様の最期の大声はまた、人間の辿る最期の道行きを指し示してくれています。 皆さんは、そうやって神様に向かって、大声をあげたこと、叫び声をあげたことはありますか。実は、あるんです。いつ大声を出しているかというと、生まれてきたとき、そして赤ん坊の時です。オギャーッ、オギャーッ、って大声で泣くでしょ。それから赤ん坊の時、大声で泣きますよ。エンッ、エンッ、エーーンッ、エーーンッ、オギャーッ。もう、顔を真っ赤にして、ほんとに赤ちゃん。体中で泣いています。なんでもっと静かに泣いてくれないの、と思う程です。終わりに八木重吉の詩を紹介して終わります。赤ん坊の泣き声の詩です。
さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん
なくんだろうか
ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでいるんだよ
かみさまをよんでいるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつこく よびな