日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年4月17日 説教:森田恭一郎牧師

「命へと引き上げられた平和の主」

エゼキエル三四・一一~一六
ヘブライ 一三・二〇~二五

主イエスは死人の内より甦られました。イースターおめでとうございます。ヘブライ書も、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が(ヘブライ一三・二〇)と、主の復活の事実を以て、私たちを祝福しています。       この祝祷の言葉、祝祷というと祈りであるように思ってしまいますが、祝福の宣言であり、祝福を以て世の海原に遣わす派遣の言葉です。今日は、この言葉を改めて味わいたい。                                 ヘブライ書は、旧約の祭儀の伝統、民の罪を贖うために祭司が神殿において小羊をささげて神様に執り成しをする、祭儀の伝統を踏まえた書物です。この祝福においても、永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、と主イエスがその大祭司として罪の贖いを、ご自身を十字架で献げて、その血によって大祭司の務めを完全に果たされたことを語ります。永遠の契約、それは真の神が私たちの神となられ、私たちがその民とされる、昨日も今日も永遠に変わることのない契約です。                     今日読みました旧約聖書、まことに、主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。私が私の群れを養い、憩わせる。私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする(エゼキエル三四・一一~)。何度読み返しても心慰められる大牧者の姿、その御業です。主イエスは神殿の大祭司であると同時に、私たちの日常生活における羊の大牧者でいて下さる訳です。                   そして新約聖書に於いても、主イエスは良い羊飼いです。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす――。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている(ヨハネ一〇・一一~)。実に慰めに満ちた心励まされる主イエスのお姿です。主イエスは私たちを御自分のものとして下さる神の永遠の契約を実現して下さいました。               このように大祭司そして大牧者として命を献げ血を流された主イエスを描いてきたヘブライ書には、これまで死人の内からの甦りについての言及はありませんでした。でもこの手紙の最後に及んで、こう祝福を宣言する。私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が……。主イエスを甦らされたことを高らかに語ります。ここでは祝福の主体は主イエスを引き上げられ、導かれた平和の神、父なる神です。                                そして、祝福を受ける側について語ります。ここで気付くことですが、祝福を受けるのは私たちとあなた方の双方です。御心に適うことをイエス・キリストによって私たちにして下さり、御心を行うために、全ての良いものをあなた方に備えて下さるように。ここに登場するのは、主イエス・キリストによって祝福を実現して下さった神様と私たちとあなた方、この三者です。祝福は、もちろん神様があなた方を祝福する二者の関係ですが、自分も祝福を受けた。だからあなた方も、とキリストを通して与えられた祝福が広げていく。三者の関係です。相互牧会もまたキリストを通しての祝福を相互に広げていく営みです。        御心を行うために、全ての良いものをあなた方に備えて下さるように。物がもらえるというより、これを直訳すると、御心を行うために、神が全ての良いことに於いてあなた方を備えますように。備えるは、例えば網の手入れをする、網の破れた所を繕うという時の言葉でもあります。欠けや破れのある私たちを新しく繕って下さって、御心を行うことへと備えて下さる。それを一緒に分かち合う。これがヘブライ書のこの祝福です。

 

今日はこの後、洗礼式です。神様を信じない旧い自分が十字架のキリストと共に死んで、神様を信じていつも備えられていく自分へと復活のキリストと共に新しく甦らされることです(ローマ六・八参照)。私たちは、洗礼を人生の出発点にして、ここから毎月、聖餐に与り、毎週、祝福を戴き、欠けや破れを繕って戴きながら、備えられ派遣されて祝福を広げていく私たちにされているのです。