イザヤ書60章1~7節
ヨハネによる福音書12章44~50節
今日から、クリスマス後のレント受難節が始まるまでの六回に亘って、クリスマスに主イエスが天から降りて来られ地上に誕生された目的、意味を考えたい。それを、主イエスの「私が来たのは~のため」という主旨の言葉から尋ねていきたいと思います。今日は、主イエスの「私は光として世に来た」という御言葉を味わいつつ、ご降誕の意味・目的を尋ねて参ります。
「私は光として世に来た」。これは、この言葉の前提になる事柄を考えますと、世は暗闇だったということです。ですから主イエスは「私を信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、私は光として世に来た」と仰います。暗闇だから人は光を求めます。
イザヤ書六〇章、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」。イザヤ書六〇章は五五章までの第二イザヤを受けている文章群の一部です。第二イザヤの預言は、バビロニア帝国の支配の下で捕囚中の民が解放されてイスラエルの地に帰還できるとの預言でした。そしてその後預言の通りに、捕囚の民はイスラエルに戻って来られたのですが、バビロニア帝国の後のペルシャ帝国においてもその支配が続き結局、イスラエルの国家の独立も王を立てることも出来ず、かつて破壊されたエルサレム神殿の再建もままならなかった。それで「あの預言は本当だったのか、神様は本当に我々に救いをもたらして下さるのか、そもそも神様は本当におられるのか」、そういった深刻な疑問が起こって来る。暗闇とは、社会的な困難もありますが、神を見出せなくなる信仰の危機のことであり、仮に身体は生きても、魂が消え去るような、全てが空しくなるような、そういう暗闇を意味しています。
そのような彼らに第三イザヤは光のイメージを以て語りかける。二節三行目「しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」。光が輝く。主の栄光です。そして人々は光を求めます。「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る」。何か壮大な光景です。
するとどうなるかというと「その時、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」。あの東方からの博士たちは一千キロを悠に超える道のりを、星の光に導かれてきた。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。本当にこの世を支配する王としての神を求めて来た。光に向かい、集まって来る、宝物や賜物、そして自分自身を携えてやって来る。
六節五行目「こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れは全て集められ、ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ、私の祭壇にささげられ、受け入れられる。私は我が家の輝きに、輝きを加える」。地名や部族名が出てきますが、異邦の地やその部族たちに、主の栄誉が宣べ伝えられ、彼らは主がおられることを体験し、神殿は主を拝む信仰の輝きが満ちる…。
主イエスは光としてこの世に来て下さいました。四七節の終わりの言葉では「私は、世を裁くためではなく、世を救うために来た」とも言われます。もっとも、光として救うために世に来られたといっても、ご降誕の時、光り輝いて生まれてきた訳ではありません。見るからに救い主だと分かるお姿で来られた訳ではありません。マリアから見れば普通の男の子と何も変わりありません。ただあの日、知らされたことがありました。「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子をベツレヘムで見つけたら、その子は神の御子救い主だ」という羊飼いを通して知る天使のお告げです。
キリスト教信仰は、一見普通の人としか思えない主イエスのお姿に、神を見出します。いや、普通の人どころか、十字架で死んだあの主イエスのお姿に神を見出します。それは十字架の主イエスにおいてこそ、私たちが苦難と死の深み、暗闇の深淵に陥った、そういう私たちにも伴い、ご自身の愛を貫いて下さる、そういう神を見出します。「私は、世を救うために来た」。世を救うために十字架にかからねばならなかった。「光として来た」。暗闇の深淵に陥った人間に光をもたらすために十字架にかからねばならなかった。十字架にかかられた主イエスのお姿に、神を見出す、だから、ヨハネ一二章四四節以下「私を信じる者は、私を信じるのではなくて、私を遣わされた方を信じるのである。私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである」。キリスト教信仰は、この言葉を真剣に受け止めねばならなりません。
ところで日本社会は、戦前の国家神道の反省から政教分離の考え方を取り入れて、国公立の教育では宗教教育が無くなりました。その理念は大切なことですが、それを良しとした上で、日本では課題が一つ。政教分離してもアメリカのような教会的宗教的地盤がある所では、教会で信仰が養われますが、日本では、宗教心を養う所が無くなった。それでどういう人間として成長していくか、戦後日本の教育はその壮大な実験をしている。そしてその結果は、漠然と宗教心はあるものの特定の神を信じない人が殆どになった。そして神を信じられないでいることの暗闇を暗闇と感じない麻痺が起こっているのではないか。「神無き教育は知恵ある悪魔をつくる」。これは清教学園の校訓の前半ですが、既に早い時期から実験の結果を見通している。「神無き教育は知恵ある悪魔をつくる」。「悪知恵に人を導く」としない所が面白い。人の外に悪魔がいるという話ではなく人間自身が悪魔化していく訳です。
そう考えると、私たちがこうやって礼拝につどって集まって、主の光に包まれることが出来るというのは幸いなことです。この幸いを自覚できるのも本当に幸いですね…。主イエス・キリストに在って神はおられると信じられる幸い。校訓の後半は「神ある教育は愛ある知恵に人を導く」です。愛ある知恵の天使を作るになっていないのは、人は罪人で天使にはなれませんから、「愛ある知恵に人を導く」で良いのでしょう。その知恵の初めは、神を神として畏れる、神を神として拝むことです。東方から来た学者たちも「拝みに来ました」と言って、宝物をささげました。主の祈りの祈願の第一番目にあるのが「御名をあがめさせ給え」と始めていることは偶然ではないでありましょう。戦後の公教育の実験の結果は、地上に「愛ある知恵に人を導く」そういう神を畏れる知恵を持った人間へと人を形成することに至っていないということです。
人生の終わりに、自分の人生を振り返って幸いなのは、神がおられて自分は神の恵みの内に愛されてきたと信じられるし、ささやかながらも愛に生きて来たと感謝の内に、安心して最期に人生を神様にお委ね出来ることです。幸いなことです。
四八節に「私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」とあります。もし信じないまま不信仰の内に、主イエスに神様を見出さないで生きて来たとすれば、この幸いを知らないままになる。でも私たちは、この人たちについてもきっと次のようになると信じて執成しの祈りを祈りましょう。天国に招かれてから、キリストの前で不信仰が裁かれて、それは間違っていましたと、その罪を悔い改めて、そうやって神をほめたたえるようになると。
地上に生きている内から、神をほめたたえる幸いの中に生きることが出来ればよかったのに、出来なかったとなれば、それは残念なことです。それを主イエスは四八節でこう仰いました。「私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。このことの意味は、信じる幸いを知らないこと自体が裁きであり、また裁きの結果は終わりの日に不信仰に気付き悔い改めて、地獄に落とされるというのではなく、神をほめたたえる者とされるということです。終りの日にどうなるかについては私が決めることではありませんが、神をほめたたえる者とされると信じます。
なぜ、そう信じて良いのか。四九節の後半から五〇節に不思議な言葉があります。「父が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになった。父の命令は永遠の命である」。信じてよいのは、その堅い意思が「永遠の命」だからです。これは強い言葉です。父なる神様のご命令というのですから。そして永遠の命を語るその主イエスの言葉が真理になるために、主イエスがご決意を以て十字架にかかられました。全ての人に永遠の命をもたらすためにです。この十字架の贖いが、効力の及ばない人がいる、というのは神様の命令に反します。そして父の命令は永遠の命です。