日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年9月4日 説教:森田恭一郎牧師

「主イエスを甦らせた平和の神」

民数記二五・一二~一三
ヘブライ一三・二〇~二五

聖書が証しキリストにおいて啓示された、私たちの信じる神様とは、どのような神様であられるのか。しばらく同じテーマで思いを深めてきましたが、今日のヘブライ書はこう語っています。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた平和の神」(ヘブライ一三・二〇)。実はヘブライ書は、今年四月のイースター礼拝まで、全文章を味わい終えていたのですが、再びこの箇所を取り上げたのかと言いますと、その時には「平和」を記していることには触れないで終わりました。改めて今日の箇所を端的に読み直すと「平和の神」です。私たちは私たちの信じる神を「平和の神」と言うことが出来る訳です。

なぜ、神様を「平和の神」と呼び得るのか。このヘブライ書の祝福の言葉にあっては、神様が、

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられたからです。主イエスを甦らせたことが「神が平和の神である」理由になっています。福音書の記事を思い起こしてみましょう。お甦りの主イエスが現れ弟子たちの真ん中に立ち「あなた方に平和があるように」と言われました(ルカ二四・三六、ヨハネ二〇・一九、二六)。特にヨハネ福音書では、自分たちのいる家の戸に鍵をかけている弟子たちです。鍵をかけたのは、イエスの弟子ということで、自分たちも主イエスと同じように捕まってしまう、それでユダヤ人を恐れた。でももう一つ、主イエスに会いたくなかったのです。弟子なのに主イエスを裏切ってしまった。本当に主イエスが甦られて現れたら、どれ程お怒りになることだろう、今更どんな面さげて主イエスにお目にかかれるか。お会いしたくなかったし、お会い出来なかった。

その彼らに、お甦りの主イエスが現れた。そしてそこで耳にした主イエスのお言葉は、意外なことに、弟子たちの裏切りを叱責する怒りの言葉ではなく「あなた方に平和があるように」でした。そして手と脇腹をお見せになり、弟子たちは主を見て喜んだ。この喜びは、復活の喜びと共に、むしろ罪赦されたことの喜びをも表しています。

 

今日の旧約聖書、平和の契約が罪の贖いの業を担う祭司職による契約であることを語っています。「それ故、こう告げるがよい。『見よ、私は彼に私の平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約に与る。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために罪の贖いをしたからである』」(民数記二五・一二~一三)。ヘブライ書は、主イエスが大祭司であることを語ります。そうのように民数記も、主イエス・キリストの十字架での罪の贖いを証している訳です。そして主イエスが甦りにより、贖いの結果としての人々に対する罪の赦しを明らかになさいました。

 

イースターの時にも申し上げましたが、ヘブライ書のこの祝福は、祝福下さる神様と同時にの、祝福を受ける人間のことも語ります。

そして祝福を受ける人間とは、私たちとあなた方の双方です。御心に適うことをイエス・キリストによって私たちにして下さり、御心を行うために、全ての良いものをあなた方に備えて下さるように(ヘブライ一三・二一)。ここに登場するのは主イエス・キリストによって祝福を実現して下さった神様と私たちとあなた方、この三者です。祝福は、もちろん神様があなた方を祝福する二者の関係ですが、自分も祝福を受けた。だからあなた方も、とキリストを通して与えられた祝福が広げていく。三者の関係です。相互牧会もまたキリストを通しての祝福を相互に広げていく営みです。

御心を行うために、全ての良いものをあなた方に備えて下さるように。全ての良い「物」がもらえるというより、これを直訳すると、御心を行うために、神が全ての良い「こと」に於いてあなた方を備えて下さるように。備えるは、例えば網の手入れをする、網の破れた所を繕うという言葉でもあります。欠けや破れのある私たちを新しく繕って下さって、御心を行うことへと神様が私たちに備えて下さる。それをあなた方と一緒に分かち合う。これがヘブライ書のこの祝福です。

 

それで、この祝福に続けてこう手紙を締めくくります。兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れて下さい、実際、私は手短に書いたのですから。私たちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒に私はあなたがたに会えるでしょう。あなた方の全ての指導者たち、また全ての聖なる者たちに宜しく。イタリア出身の人たちが、あなた方に宜しくと言っています(ヘブライ一三・二二~二四)。終わりに忘れないでもうひと言言い残しておくと、といった感じの文章ですが、深みがあります。ヘブライ書全体の勧めの言葉を受け入れるにしても、宜しくと挨拶するにしても、平和の神が、贖い主イエス・キリストの罪の赦しの祝福をして下さった、それを分かち合ってあなた方も祝し合うようにと、相互牧会へと招いて終わっている。神様から私たちへの縦の祝福が、ここでも、あなた方同士の横への祝福へと拡がる。

ヘブライ書の著者は、終わりにもう一度祝福の言葉を記して筆を置くのですが、祝福の恵みは、祝詞し合うことへ展開する恵みなのです。恵みがあなた方一同と共にあるように(ヘブライ一三・二五)。そして、私たちの全ての業を成し遂げて下さるのはあなたです(招詞 イザヤ書二六・一二)。

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