列王記上17章17~24節
テサロニケの信徒への手紙一5章20節
「預言を軽んじてはいけません」。何故かと言えば、その預言を通してのみ神様に出会い神様の働きに触れ、罪の赦しを信じ、希望を与えられて生きていくことが出来るからです。
預言というと、今日のエリヤのような旧約時代の預言者の語った預言をまず思い起こしますが、テサロニケ書のこの「預言」は新約の預言でありましょう。当時はまだ新約聖書は出来ていなかった。旧約聖書の巻物も、ユダヤ教の会堂にはあったでしょうが、ユダヤ教に直接触れない異邦人には旧約の巻物もない。ありましたのは復活の主イエスに出会った使徒たちの証言の言葉でした。その使徒たちはもともとユダヤ人ある人々が中心でしたから旧約の言葉は充分知っていたから、その証言の中に旧約の言葉も入って来たでしょう。つまり旧約聖書が証していた救い主=キリストとは、ナザレのイエスの事だという仕方で、旧約の言葉をも語りました。
でもそこにあったのは、使徒たちの証言です。そしてテサロニケの人々にとってみれば使徒パウロですが、パウロはテサロニケに伝道しても、いつまでもそこに居る訳ではないですから、パウロが語った言葉を受け取り、時には解釈し、語り継ぐ人が必要になる。それが預言者。それは必ずしも誰か立派な一人の預言者がいたというよりは、パウロの話を聞いた人たちがみんなが預言者になったとも言える。パウロ先生はこう語っておられましたね、とパウロの言葉を神の言葉として受け入れて、共有し、新しいメンバーに語り継いでいく訳です。そういう言葉が、教会の宝、教会だけが持つ財産になっていく。財産と言ってもお金ではありません。教会の言葉、礼拝の時にみんなで唱和して語る礼拝の言葉、祈りの言葉になり、福音の内容になる部分については信仰告白の言葉になっていく。
ただ、そのプロセスの中で、パウロ先生はこのことについてはどうお考えだったんでしょうかね、という疑問が生じることも起こる。それでパウロ先生に問い合わせをし、お考えを教えてもらい、教会として信じるべき事柄、その内容を整えていくことも起こる。そのために必要になって記したのが新約聖書にあるこういう書簡。
そして例えば4章13節にこうあります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、是非次のことを知っておいて欲しい」。パウロにこう語らせる問いが起こった。「主イエスは再び天からお出で下さると伺っておりましたが、その前に死んでしまった人たちは、イエス・キリストにお会い出来るんですか?」。この問いに対して14節以下でパウロは答えている。「イエスが死んで復活された」という出来事の証言者として私は語りました。それを私も皆さんも信じています。それで「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して下さいます」とその出来事の意味することを、パウロは使徒として手紙に記す。
あるいはまた5章10節「主は私たちのために死なれた」とあります。主が十字架にかかって死なれたというあの出来事は、主が私たちのために死なれたという意味なんですよ、9節「神は私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです」よ、と主が死なれた出来事の意味を語っています。10節の次の所も同じ。主が死なれたのは「私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるため」なのですよ、と意味を語っています。パウロは使徒として手紙に記している。これらの手紙の言葉も、預言として語り継いでいくべき教会の宝、財産になっていく訳です。
5章20節に戻りますが、その預言を軽んじてはいけませんとパウロは確認をする。何故か、この預言を通してこそ、神さまのこと、父なる神様がイエス・キリストに現して下さった神様の愛が解るからです。そこから希望を以て生きられるからです。
今日の私たちにとっては、その預言は聖書です。また信条や信仰告白の言葉であり、聖書に基づくみ言の説き明かし=説教です。これらを通して、私たちは 神の愛に触れる。だから私たちは「預言を軽んじてはいけません」。
「軽んじる」という言葉は、例えば、(ローマ14・9-、p.294)「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに何故あなた方は自分の兄弟を裁くのですか。また何故自分の兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。『主は言われる。私は生きている。全ての膝は私の前に屈み、全ての舌が神をほめたたえる』と」。このパウロの言葉によりますと、キリストが死んで甦られたのは、裁きの座の前で全ての人が主なる神をほめたたえるためなのだ、なのに、そういう兄弟を何故あなたは方は侮るのか。この侮るが軽んじる。兄弟を軽んじるというのは、主の十字架と復活を軽んじることになりますよ、ということですね。
さて今日は旧約聖書の預言者エリヤの物語を読みました。エリヤ物語は旧約聖書の列王記17章(p.561)から始まります。彼の第一声は17章1節「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」。
エリヤは、時の王様アハブ王が、イスラエルの神を礼拝せず、農耕の神、雨の神バアルを拝むので「本当に生きている神はイスラエルの神なのだ、数年の間、雨は降らなくなる」と預言する訳です。それでエリヤはアハブ王に追われて、ある時、異邦人の女性、あるやもめの所に身を寄せる。途中飛ばしますが、そうしましたら17節から「その後、この家の女主人である彼女の息子が病気に罹かった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った……。彼女はエリヤに言った。『神の人よ、あなたは私にどんな関りがあるのでしょうか。あなたは私に罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか』」。母親は激しく訴えます。嘆きます。落ち込みます。
この母親が経験している事、それは私たちも経験し得ることです。私たちは、親しい者が亡くなりますと、まして自分の家族・子供が亡くなりますと、たとえ一生懸命看病したとしても、自分は子どものために十分なことはしてあげられなかったと、自分を責める罪意識にかられます。あるいは、この子が死んでしまったら私が生きる意味もないと、その子の死は自分の死の問題になって来る。
でも彼女は、エリヤの語る預言の言葉を軽んじません。前の段落の15節で「やもめは行って、エリヤの言葉通りにした」。そして16節「主がエリヤによって告げられた御言葉の通り」になったことを知っている。母親の彼女は激しく訴えます。嘆きます。落ち込みます。でもエリヤに背を向けてではない、エリヤに向かって訴えます。嘆きます。落ち込みます。だから物語が展開する。
その母親を前にエリヤは、19節「『あなたの息子をよこしなさい』と言って、彼女のふ所から息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって祈った。『主よ、わが神よ、あなたは、私が身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか』」。エリヤは母親にもまして激しく訴えます。嘆きます。エリヤは、この息子が息を引き取ったこと自体より、このやもめにさえ災いをもたらされていることを訴えています。その災いとは、息子が息を引き取った事であることはもちろんなのですが、その不幸に併せて母親に襲い掛かる、神なんかいないという人間の生きる意味を見いだせないようにさせる諦めです。心が死に始めている。この災いです。
そこでエリヤは21節「彼は子供の上に三度身を重ねてからまた主に向かって祈った。『主よ、わが神よ、この子の命を元に返して下さい』」。母親の息子が息を引き取ったどうしようも出来ない只中でエリヤが出来たことはただ祈ることでした。
そうしたら22節「主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、『見なさい。あなたの息子は生きている』と言った」。不思議なことです。エリヤ自身が改めて知った。私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」。そして聖書は、この子の生き返ったことに焦点を当てていないようです。 「見なさい。あなたの息子は生きている」とエリヤが指し示したこと、それはこの子が生き返ったことではなく、異邦人のこの母親と家族にも、神様御自身が生きておられることを明らかにされたということです。それを「見なさい」とエリヤは語る。生き返ってもこの子は寿命を迎えれば死にます。母親もいずれ死にます。私たちも例外なく同じです。でも、神様御自身は生きておられる。私たちが人生の終わりを迎えるとしても、生きておられる神様御自身の御手の内に、委ねることが出来る。あの息子の甦りは、その奇跡自体ではなく、息子が死んで甦ったによって証しするキリストの十字架と甦りを指し示している点で意味深いのです。
キリストをしっかりと見据えることにおいて、教会は、今の甦りの奇跡を求めません。また親しい者であれ自分であれ、息を引き取る時には、私たちは自分の罪を思い起こす。自分の罪を抱えているからです。そのことにおいて神様は何を為さるのか? 先ほどのローマ書の言葉を思い起こしたい。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに何故あなた方は自分の兄弟を裁くのですか。また何故自分の兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。『主は言われる。私は生きている。全ての膝は私の前に屈み、全ての舌が神をほめたたえる』と」。
兄弟であれ、自分であれ、罪を抱えているからと言って侮ってはいけない。みんな裁きの座の前に立たざるを得ないのですが、その時、主イエスは私たちを侮るのではなく、赦しと恵みの内に私たちを見出して下さる。「主は言われる。私は生きている。全ての膝は私の前に屈み、全ての舌が神をほめたたえる」。
だから、エリヤの預言を聴いたその所に、つまり息子ではなく母親に、ある出来事が起こりました。「女はエリヤに言った。『今私は分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です』」。異邦人の彼女は、預言者エリヤに背を向けず、また彼のお語った預言に背を向けず、侮ったり軽んじたりせずに、向き合った。 「あなたの口にある主の言葉は真実です」と告白出来た恵みの中に生き始めた。