日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年3月10日 説教:森田恭一郎牧師

「主の愛を信じ味わう、パンと杯」

マタイ二六・二六~二八

今日は聖餐式の話をします。パンを食べ、杯から飲む、聖餐式です。今日はその式は執り行いません。今度三月三十一日のイースター礼拝の時に執り行います。

 

家族友だち礼拝で最近お話してきたのは、イエス様にギュッと抱っこされるのが永遠の命だということです。丁度、赤ちゃんが泣いていても、お父さんお母さんにギュッと抱っこされると安心して泣き止みます。泣き止むのはどうしてですか? お父さんお母さんは私のこと愛してくれている、大切にしてくれている、忘れないでいてくれる、と分かるからです。それは頭で分かるということよりも体で分かる、見えない愛を体で味わっているからです。

それと同じようにイエス様にギュッと抱っこしてもらうと、主イエスが私のこと愛してくれている、大切にしてくれている、忘れないでいてくれる、と大人でも安心します。それを永遠の命と言います。その抱っこは見えない神様の愛を形にして見せてくれています。

 

もっとも今ここにいる皆さん誰もが、イエス様に抱っこされたことはありませんし、抱っこされるのを見たこともないです。聖書には、イエス様が子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された(マルコ一〇・一六)とありますが、その子どもたちはいいけれど、私たちにはそんなことないなと思ってしまいますね。

それでイエス様は、パンと杯を整えて下さいました。捕らえられ十字架で死んでしまわれて、弟子たちの前からいなくなり見えなくなってしまっても、イエス様が愛してくれている、大切にしてくれている、忘れないでいてくれる、抱っこしてくれている、とみんなが安心出来るように、捕らえられる直前にパンと杯の聖餐式を用意して下さいました。聖餐式の恵みの中で、イエス様の見えない愛を思い起こし味わって、皆、安心します。

 

それで今日の聖書個所、イエス様のなさった動作とお言葉に注意して聞きましょう。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ二六・二六)。

イエス様はパンを手に取りました。思いを込めて。だから賛美の祈りを唱えます。そして裂きました。それから弟子たちに差し出して与えながら言われました。「取って食べなさい」。そして不思議なお言葉です。「これは私の体である」。

これはパンです。そしてこのパンを主イエスの手から受け取って食べる時、口にして、モグモグと味わい、ゴックンと呑み込む。そのときに「これは私の体である」のお言葉を繰り返し心に留めます。主イエスがパンをお裂きになりました。それは小さくちぎった方が食べやすいから、ということではありません。弟子たちはこの時は分かりませんでしたが、後になって分かりました。十字架でイエス様のお体が裂かれたことを現しているのだと分かりました。これは教えを越えて、十字架でお体が裂かれる出来事です。

 

それから杯。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(マタイ二六・二七~二八)。

イエス様は、この杯を取りワインを注ぎます。思いを込めて。だから感謝の祈りを唱えました。この杯を差し出し渡して言われました。「皆、この杯から飲みなさい」。そして不思議なお言葉です。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。 感謝の祈りを唱えたのは、みんなの罪が赦されるからです。そしてこのワインは赤い。罪の赦しのために流されるイエス様の血を現しています。それも契約の血です。契約とは約束のこと、イエス様が十字架にかかって罪を赦し「私があなた方の神となり、あなた方は私の民となる」という約束です

これは杯です。ここに入っているのはワインです。この杯を主イエスの手から受け取って飲む時口にして、口の中で味わい、ゆっくりとゴックンと飲みます。そのときに「これは私の血、契約の血である」のお言葉を繰り返し心に留めます。主イエスが杯にワインを流し注ぎました。弟子たちはこの時は分かりませんでしたが、後になって分かりました。イエス様の十字架で血が流されたことを現しているのだと分かりました。これは教えを越えて、十字架で血が流される出来事です。

 

このパン自体はただのパンです。でもお体を現していると分かって信じて食べる時、もうただのパンではありません。主イエスが与えて下さったパン、主イエスのお体を現している徴、シンボルです。イエス様の血である、と信仰を以て戴きます。

またこの杯のワイン自体はただのワインです。でも主イエスの契約の血を現していると分かって信じて飲む時、もうただのワインではありません。主イエスが渡して下さった杯のワイン、主イエスの血潮を現している徴、シンボルです。イエス様の契約の血である、と信仰を以て戴きます。

逆に言うと、分からず信じないまま、いくらパンを食べ、ワインを飲んでも、ただのパンのまま、ただのワインのままで、恵みは届きません。主イエスが命を献げて下さった十字架の出来事、そこで罪の赦しが起こり、イエス様が私たちの神となって下さった出来事は、その人には届きません。届かないどころか、イエス様がそれ程の思いを込めて献げて下さった賛美と感謝、お体と契約の血、それを現す特別なパンと杯を理解しないままに食べ、飲むと、大変失礼なことになります。

 

洗礼を受けた人たちは、十字架の見えない意味が分かり、主イエスの見えない愛を信じて、心して差し出されたパンを食べ、杯から飲んで聖餐に与ります。そのとき聖霊の導きの下、イエス様がここにおられます。

求道中の大人の皆さん、また子どもの皆さん、十字架の意味が分かり、それを信じて洗礼を受け、聖餐に与る信仰者へと導かれますよう祈ります。

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