ミカ五・一
ルカ二・一~七
クリスマスおめでとうございます。今日は教会学校教案誌カリキュラムの聖書個所ルカ福音書に基づいて「誕生の歴史、誕生の出来事」という点からお話をします。
イエス様の誕生日、十二月二十五日。それは、ただの「日にち」ではありません。その日に起こった「出来事」、そして記憶に残り語られる「歴史」になりました。エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のために、イスラエルを治める者が出る(ミカ五・一)。そのように旧約聖書に預言され、そして実際に一人のみどり児がベツレヘムで生まれ、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。これがイエス様の誕生の出来事、誕生の歴史です。
皆さんも、生まれた誕生日があります。その出来事はどんな出来事だったのでしょう? お父さん、お母さんに聞いたことはありますか? イエス様が生まれたのはベツレヘムの家畜小屋でした。皆さんは? 生れた所は河内長野の病院ですか。お家(うち)でお父さん、お兄さん、お姉さんに囲まれて生まれた人もいるかもしれません。皆さんが生まれたのは日の出の光が射し込んでくる朝でしたか。それとも星が瞬(またた)く夜でしたか。生まれた日、横になって寝かされた所は、ベッドでしたか。またどんな産着を着せられましたか。お布団をかけられて温かくしてもらっていましたか。そして皆さんは、どのような想いに包まれて生まれてきましたか。おめでとう、と祝福と喜びに包まれて生まれて来たのだと思います。
でも世の中、全ての人が祝福の中に生まれて来たとは言えない人もいます。ある人は、四人目の赤ちゃんだったそうです。兄弟みんなお兄さんで、その時、お父さんは「また男の子か」とがっかりしてしまったとか。逆もありです。みんな男の子でも、みんな女の子でも、神様が授けて下さった大事な大事な生命、可愛い可愛い一人ひとりなんですけどね…。これ以上にいろいろな理由があって、自分の生れて来た時のことを他の人には隠しておきたいと思う人もいるかもしれません。
イエス様の誕生に至る出来事はどうだったでしょう。その時、ヨセフとマリアは住民登録のためにナザレから遠くベツレヘムまで旅をして行かねばならない時でした。何日もかかります。ヨセフは心配しました。「マリア、どうしよう。大変な旅になるぞ」。マリアは「旅の途中で生まれることになったら大変。でも一番良い時に生まれてくるように神様がして下さいますから」と答えて、二人は信じて出発したのです。
生れそうになったのは、ベツレヘムの町に着いてからでした。彼らがベツレヘムにいる内に、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、ベツレヘムに向かう途中でもなく、住民登録が終わってナザレに帰る途中でもなく、丁度ベツレヘムでした。預言されていた通りで、何だか神様のなさる不思議を感じます。でも、宿屋には彼らの泊まる場所がなかった。居場所がなかった。それで家畜小屋が一息腰をおろして一休みする所、いや、出産の場所となってしまいました。
その場所には、誰も前もってお祝いする人も手伝ってくれる人もいません。家畜小屋にはお布団はないので家から持ってきた布一枚。ベッドもないのでそこにあった飼い葉桶。それは家畜が餌を食べたり水を飲んだりするのに使うものです。それでイエス様が生まれたら、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
またヨセフもマリアも、生まれる子は神の御子と、前もって天使からお告げを受けていました。だから夢を描いていたかもしれません。神の御子のお誕生なのだから、光輝いて生れて来るかも。王宮で生まれることになるのかもしれない。豪華なベッドで、暖かなお布団をかけて、特製の産着を着せてあげて、みんなが祝ってくれて、その日にはお手伝いしてくれる人も沢山いて…と。
現実は全く違いました。違った所か、人並み以下です。神の御子と言っても何も光り輝いて生れてきた訳でもなく、家畜小屋で、布にくるんであげて飼い葉桶に寝かせるのが精一杯。実際の出来事は期待外れに終わりました。このような誕生の出来事、喜んで語り伝えたいとは思いません。
でも聖書は、泊まる場所がなかったことをわざわざ書き残します。ここに神様の御旨、ご計画があるとルカが導かれたからです。誕生の時から苦難を帯び十字架の影が差し込む出来事であると書き記しているようです。それでイエス様の誕生日は、ただの日にちではなく出来事を語り継ぐ歴史になりました。
イエス様は、神の御子なのですから、父なる神様とご一緒に高い高い天におられたお方です。でも、こうやって人としてこの地上に、歴史の中に降りて来られて、低くされ、貧しい中に人として、生れて来ました。神様の御子なのに私たちと同じ身体を以て生まれてきました。だから、つねると痛い、冬は寒い、病気になると苦しい。これが解る。私たち人間の痛みや悲しみもみーんな解る。それに、十字架に付けられる、何も悪いことをしていないのに苦難を受けるこの不条理の試練も、これは私たち以上に体験されました。
新約聖書は、イエス様のことをこう記します。イエスは、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです(ヘブライ二・一七~一八)。聖餐式はこの出来事を私たちに味わわせてくれます。
イエス様のことを聖書が書き残し、教会が語り継ぐようになったお蔭で、私たちが聴き味わうと、主イエスのご降誕の出来事が、私たち自分の出来事、人生の歴史と重なってきます。特に誰からも祝福されず居場所がないと感じるとき、イエス様の誕生の出来事が、私たちにとっても慰めとなります。一人のみどり児が私たちのために生まれた(イザヤ九・五)。私たちを独りぼっちにはしない、私たちのための救い主の誕生の出来事になります。