日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年10月17日 説教:森田恭一郎牧師

「トマスは本当に疑い深い人なのか」

川俣 茂(清教学園中学宗教主任)

ヨハネ福音書20:24-29

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」…主イエスの弟子の一人であるトマスという人がいました。主イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。つまり、他の弟子たちはいたのですがトマスだけがいなかった。「一緒にいない」ということが、どういう意味を持っているか。トマスが一緒にいなかったということについては、今さら言われても仕方がありません。むしろどうしてトマスが一緒にいなかったかということの方が大切です。どうしてトマスは一緒にいなかったのでしょうか。

この箇所が「疑い深いトマス」という箇所であることはご存知でしょう。つまり、復活を信じないトマス、復活なんかあるはずがないというような疑い深いトマスとして知られていますが、私は「はたしてそうか」と思うことがあります。本当にトマスは疑い深い人なのでしょうか。トマスがどうしてそこにいなかったかということがわかれば、トマスの気持ちがわかるのではないかと思うのです。

ヨハネによる福音書の11章をみると、ラザロが死んでしまった時に、イエスがそこに行こう、ラザロを助けに行こうと言われた時に、多くの弟子たちは危険だといってイエスを止めましたが、その時トマスだけは、主がそう言われているのだから我々も行こうではないかと言い、主が危険な目に合えば、我々弟子たちも危険に遭うのは当然ではないかと主張しました。

トマスという人は、イエスを愛してやまない信実さというものに満ち溢れていた弟子だった。弟子といってもいろいろな人たちがいて、ただ単についていった人もいれば、ついていけば何かいいことがあると思ってついてきた人もいるでしょう。しかし、トマスにはイエスを愛してやまない信実さがあった。そのことは、その後を読んでもわかるかと思います。トマスという人は、他の弟子、例えばペトロなどと比較してみると、その性格というのがよくわかるのですが、ペトロという人は、どちらかといえば直情型とでもいうのでしょうか。よく言えば非常に純粋な人でありました。それゆえに、後に主の教会の御用にあたることになりました。しかしトマスという人は、物事を普段からそのときに瞬間的に考えるのではなく、普段からよく考え、考え、考え抜く人であったと思います。ですから、そこから疑い深い性格というものが言われるのかもしれません。しかし疑い深いというよりは、彼は一所懸命考える人だった。「考える人トマス」といいたいくらいです。トマスは考えていた。物事を深く考えていた。しかし、トマスは悲しみと憂いというものが自分の身に降りかかってきた時、それを容易に振り払うことのできる人ではなかったと思います。その悲しみとか世の中の矛盾とかをはねかえすとか、それはそれだと割り切ってしまうとかいうことではなく、その悲しみや悲嘆や憂いの中にずっとこもってしまうというか、影響をまともに受けてしまうという性格だったかと思います。これはトマスの性格の弱さです。私たちには、強い部分だけではなく、弱い部分もあるということが見えてくるかと思います。

「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。どうして他の弟子たちが集まっているのに、トマスは一緒にいなかったのか。イエスが十字架につけられてしまった。あれほど愛してやまなかったイエスが十字架にかかり、自分がこうして生きている、そういう時に仲間と一緒にいるなどということができなかったのでしょう。そこがトマスの弱さです。一緒にいれば物事は解決した。ところがトマスは、イエスが十字架にかかっているのに、あのような悲惨な最期を遂げたのに、どうして集まっていられるのだろうかと思っていたのではないでしょうか。

「イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった」というのは、トマスにとっては痛恨の出来事でした。復活の主イエスがいらっしゃった時にいなかった。いなかったというのがポイントです。いわば彼は恵みを失ったのです。トマスにも同情すべき点があります。他の弟子たちが私たちは主に出会ったと言った。そこでトマスは仲間である弟子たちにこう言ったのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。なぜこういうことを言ったのでしょうか。トマスは十字架にかけられ、くぎ打たれ、残酷な死を遂げたイエスが頭の中に浮かんできて、あの愛してやまないイエスの最期の姿がよみがえってきたのでしょう。くぎ打たれ、槍で刺されたイエスのこときれた死の光景しか浮かばなかった。ですから、イエスが現れたといった時、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。この言葉にはトマスの主イエスに対する熱烈な気持ちが現れています。彼は主イエスを忘れることはできなかった。しかし悲嘆と憂いにくれていますから、トマスが考える主イエス・キリストというのは、十字架上の血まみれの主イエスしか思い浮かばないわけです。

主イエスに対するトマスの愛の信実さ、それは残念ながら誤った方向に固執してしまうことになった。トマスは自らの不信仰と落胆との中に陥ってしまったことを修正することなく、むしろそのような状況を助長してしまった。私たち信仰者は、信仰的に見て不信仰な状態に陥った時に、その不信仰な状態をむしろ自分で助長してしまう。そして信仰の友や周囲の人の勧めや勧告に対して素直に応じられなくなる。そこから遠ざかろうとする。ですからトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言って他の弟子たちを困らせた。

さて、私たちはもう少し突っ込んでトマスのことを知る必要があると思います。この聖書の箇所をよく読んでみてもわかるのですが、弱いところがあると、人間は無意識のうちにカバーしようとする、補おうとする。その弱いところを人に見せまいとするものですから、強く出てしまう。「決してそんなことはありません」というのは、それは誇張した言い方で、「私はうそをついていません」と言えば言うほど、その人はうそをついていることになってしまう。弱い人の方が高ぶる、本当に強い人は謙遜になる。弱い人の方が傲慢になることがある。それはどうしてでしょうか。その人は一つのことに、自分の考えに固執し、他人の意見を受け入れる余裕がなくなる、言い換えれば結局自分が一番正しいということになってしまいます。

トマスの決定的な問題点は、どんなに主イエスがトマスのことを愛しているかということがなぜ考えられなかったのかということです。トマスは主イエスのために祈っていたでしょう。しかし、主イエスご自身もトマスのために祈っておられた。そのことをトマスはやはり考えられなかったのです。私たちの方ではなく、主イエスの方、十字架につけられた主イエスの方がいかに私たちのことを愛してくださっているか、いかに私たちのために祈っていてくださるかという、そこにこそ私たちキリスト者の信仰の確かな根拠があるわけですから、それを捨てたら、信仰は誤ってしまう、間違った信仰となってしまうと思うのです。

他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と記しているのに、その証しを一切考慮せずに「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。要するにこれは失礼なことを言っていることになってしまう。それがいかに人を傷つける言葉であるかということに本人が気づいていないのです。しかし幸いなことに、26節以下を読んでいくと、8日という時がある。トマスの良いところは自分の言ってしまったことを、もう一度、よく考えてみるところでしょう。自分が人に言ったことをすっかり忘れてしまっている人がいたりしますが、トマスはこの8日の間、一所懸命に考えた。そして他の弟子たち以上に、イエスがよみがえる、復活されるということを前に聞いたことがある、前に教えられたことがある。イエスがよみがえったということは一体どういうことなのかを思いめぐらしていたのではないでしょうか。そこで彼は深い心を以って、痛む心をもちつつも、弟子たちの交わりに復帰したのです。

そもそも24節でトマスはイエスが現れた時にそこにいなかったというのが問題だった。しかし、26節の「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」、これが実に輝かしい、私たちの胸を打つ聖書の言葉です。一緒にいなかったトマスが、一緒にいるということについて、トマスがその間、どんなに考えたかということを察しなければならない。8日という日数が必要だった。これは神のトマスに対する御導きだと思います。「あなたがたに平和があるように」、私たちが救われるのはこういう時である。今、皆さんは心に平安がありますか。平和ですか。トマスは一人ではなく、一緒にいた時に、「あなたがたに平和があるように」というイエスの言葉を聞いて救われたのです。それを知っておられた主イエスはトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」。これを聞いてトマスはたまらなくなったのでしょう。「わたしの主、わたしの神よ」とイエスに向かっていった。十二弟子の中でこれほどはっきりしたイエスに対する信仰告白をした人はいません。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスは主イエスを神と呼んだ。こうして信仰とは理性的な、理知的なものの困難解決によって生み出されるものではない。復活というものを、人間の考えの及ぶ限り理性で考えても、そこに解決はない。トマスのこの「わたしの主、わたしの神よ」は考えに考え抜かれた言葉ではありません。理知的に、理性的に考えて出て来た言葉ではありません。主イエスの「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉を聞いたトマスが思わず、たまらなくなって言った言葉です。ここに、トマスの主に対する思いを、愛を見ることができます。主を愛してやまないトマスの姿が、ここではっきりと示される。これでも「疑い深い」トマスと言えるでしょうか。いくら復活や信仰というものを理性的に考えても、考えれば考えるほど、わからないものとなってしまうのです。

神にできないことはありません。神は愛なり、この神の御心を私たちが心の中で信じたときに、その瞬間に神が私たちを愛してくださっていることを、そして主イエスがよみがえられたということを知ることになるのです。

復活について私たちはいろいろな疑問が生じますが、説明によったり、解答が示されたりすることによって復活がわかるわけではありません。「あなたがたに平和があるように」と心に呼びかけた時に、私たちの信仰が確固としたものとなるのです。私たちは神を、主イエスを見なければ信じないというわけではありません。「見ないで信じる者は幸いである」、私たちは心のうちに、人生の歩みの中で、生けるキリストが心の中に迫ってきた時に、また、神は愛であり、「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉が成就することを体験した時に、実感した時に、私たちは救われていくのです。トマスのような人も救われたのです。ペトロのような人も救われたのです。すべて信じる者は救われるのです。私たちがどんな困難を抱えていようとも、主イエスは「あなたがたに平和があるように」と言って下さることを忘れてはならないと思います。