イザヤ四六・八~一〇
ルカ 二四・一~一二
「本当に主は復活された」(ルカ二四・三四)。皆さん、イースターおめでとうございます。
神様の出来事が、私たちの知らない内に歴史の中に、歴史を貫いて起こっています。イースターの朝のことです。亡くなられたイエス様が復活なさいました。 それを最初に告げ知らされたのは婦人たちでした。イエス様のお体に香料を塗るために、ちゃんと葬りをするためにお墓にやって来た婦人たち、その心は真っ暗です。三日前、イエス様は十字架で死んでしまわれ、そして葬られ、土曜日も、婦人たちの心は真っ暗。日曜日の朝も真っ暗な心を引きずって墓に来ました。ところが婦人たちの知らない内に神様の出来事が起こっていました。 天使が言いました。「何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ二四・五~六)」(ルカ二四・三四)。 あなた方は知らないだろうけれど、あなた方が知らなくても、もう、イエス様は復活なさったのですよ。
婦人たちは、思いも拠らないことを耳にして、まだ戸惑った表情をしていたのでしょう。天使たちが続けてお話してくれました。「まだ、ガリラヤにおられた頃、(イエス様が)お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。婦人たちの真っ暗な心に日の光が差し込んできた感じです。
婦人たちは、イエスの言葉を思い出して、そして墓から帰って、十一人と他の人皆に一部始終を知らせた(ルカ二四・九)。婦人たちはこれらのことをちゃんと話したのに、使徒たちは、この話が戯言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。なんで信じてあげないのかと思いますが、それも当然です。死んだ方が復活なさっただなんて、考えれば考えるほど有り得ない。でも神様の出来事が起こった。あの方は墓にはおられない。復活なさった。この言葉が心から消えません。
気付いてみたら、ペトロは立ち上がって走り出していました。墓へ走りました。何故走ったのだろう? 子どもの皆さんは、よく走りますよね。お母さんが「こっちこっち」と呼びかけると走るでしょ。何か良いことあるかなとちょっと期待して走ります。ペトロも婦人たちを信じることは出来なかったけれども、話を聞いて、イエス様の言葉を思い起こして、ペテロを立ち上がらせ走らせる何かを感じた。それで走った。ペトロは恐らく自分では気付かなかったけれども心の中にも何か光が差し込んできていた。
お墓の所に着いて、身をかがめて中を覗くと、亜麻布しかなかった。主イエスのお身体を包んでいた亜麻布です。でもペトロは、婦人たちの言った通りだ、と信じたのではなくて、この出来事に驚きながら家に帰った(ルカ二四・一二)のでした。
この時、ペトロの心はやはりまだ暗かった。頭で考えて、証拠を積み重ねて理解しようとすると暗くなります。空っぽの墓やお身体を包んでいた亜麻布を見ただけでは、そんなことあるはずがないと、冷めた思いになることはあっても、信じることにはなりません。誰かが持ち去ったのかも知れない、と疑えばいくらでも疑えるからです。 でもペトロは素直に驚くことが出来た。それは、今、見た出来事と婦人たちの話を戯言だと片付けないで、重ね合わせたからです。墓が空っぽなのは、誰かが持ち去ったからではなくて、イエス様が復活なさったからなのかもしれない。重ね合わせて不思議だなと驚いた。この重ね合わせが大事です。不思議はワンダー。それが満ちあふれてくると、ワンダフルになりますから。 後は復活は信じることです。信じると言っても思い込みとは違います。この後、復活されたイエス様が、使徒たちに現れて下さいました。そして彼らはこう言っています。「本当に主は復活して、シモンに現れた」(ルカ二四・三四)。
婦人たちの話を聞いて、戯言のように思ってしまった使徒たち、墓まで走って空っぽの墓を見てまだ信じられなかったペトロ、そのような彼らの所にキリストは現れて下さった。そして「本当に主は復活なさった」とキリストのことをお互いに語り合う者となった。そしてペンテコステ以降、復活のことを知らない人たちに、神の出来事は、本当に起こったんです。本当にイエス様は復活なさったんです、とイエス様のことを伝える人になりました。ペトロたちは、光の中を歩んでいます。
今、皆さんはイースターの礼拝に集っています。
イースター、ヨーロッパから見て東という意味です。この会堂は会堂建築の伝統に従って東に向かって建てられています。皆さんは今、主イエスが復活された方角に向いて、主イエスが復活された日曜日を主の日として礼拝をささげています。神様の光が差し込んでくる中で礼拝をささげます。 私たちは聖書の言葉を思い起こすことしか出来ません。でもそれが出来る! 使徒たちのように直接、復活の主イエスが現れることはないかも知れません。でもその時、復活なんてあるはずがない、と戯言に思わないで、礼拝をささげて御言葉を聞きながら、不思議だなと思いつつも聖書の言葉をいつでも思い起こせるように心に留め蓄えておいて下さい。 すると、何かのきっかけで、気が付けば信じる自分になっている。洗礼を受けないではいられない自分になっている。福音に触れて良かったと思う自分になっている。ツライ中にあって倒れそうだけど倒れきっていない自分になっている。年を重ねて自分が病気で死にそうになっても不思議と絶望になっていない自分がいる。思い起こす聖書の言葉と、人生経験がどこかで重なる。そうしたら、皆さんにも光が差し込んでいる。主イエスは復活の朝を見通すようにしてこう言われました。「私は光として世に来た」(ヨハネ一二・四六)。