日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年5月20日 説教:森田恭一郎牧師

「イエスは主であると」

ヨエル書3章1節
使徒言行録2章1節~4節
今日は、保育園や幼稚園の子どもたちや親御さんの皆さん、家族友だち礼拝にようこそおいで下さいました。歓迎致します。
教会には大きなお祝いの日が三つあります。
一つ目はクリスマス。イエス様が天上からこの地上に降りて来られてお生まれになったイエス様の誕生日です。
二つ目はイースター。イエス様が十字架に架かって死なれましたが三日目に甦られた復活の日です。そして三つ目はペンテコステ。聖霊が降臨して教会が誕生した教会の誕生日です。
このクリスマス、イースター、ペンテコステ、この三つのお祝いの日を教会は特別にお祝いします。

皆さんは一つ目の、クリスマスおめでとう。皆さんそのように口に出して言ってみたことあると思います。一緒に声に出して言ってみましょう。大人の人も子供たちも「クリスマスおめでとう」。
二つ目は、イースターですよ、皆さんでご一緒に、「イースターおめでとう」。そして実は今日がペンテコステ、教会の誕生日なのです。だから今日はペンテコステおめでとう、です。ペンテコステ、うまく言えますか。大きい声で「ペンテコステおめでとう」。皆さんが声を揃えてお祝いして下さったので教会も喜んでいます。それでペンテコステの日には、この後、特別に聖餐式という儀式もします。
ペンテコステに誕生した教会は、イエス・キリストを主なる神様であると信じて礼拝をささげます。そのように礼拝の集まりが始まったのは、今から二千年近く前のことです。聖霊=イエス・キリストの息吹が吹いて、教会が誕生しました。以来、教会の私たちは、おめでとうと言って毎年、教会の誕生日を祝います。皆さんも誕生日、もう何回お祝いしましたか。三歳の人は三回? 四回? 五回? 一番最初の誕生日は、お母さんのお腹から生まれてきました。

教会は最初の日、どうやって生まれてきたのでしょう。その一番最初の日、五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっているととあります。イースターから五十日目の五旬祭の日でした。みんながお祈りして集まっていたんです。そうしたら、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。ビューッと。それが、聖霊、イエス・キリストの息吹だったのですね。
この「とどまった」という言葉、主イエスが甦って来られて弟子たちにご自身を現されて、四〇日目に天に挙げられて、神の右の座にお着きになりました。この座に「着く」という言葉と同じです。天上でキリストが神の右の座にお着きになるのと、地上で一人一人の上に聖霊がとどまるのは表裏一体の、天地に展開する一つの出来事です。天の神の右の座からキリストが息を吹きかけ、その息吹が聖霊として一人一人の上に留まりました。
それでどうなったかというと、一同は聖霊に満たされ“霊 ”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。「イエス様は主なる神様で私たちの罪を贖い取って下さった救い主です」と語り出した。その日以来、教会に集まる人は世界中、どこの国の人でも、イエス様は主なる神様、十字架で私たちの罪を取り除いて下さったと信じて、復活の希望の中に導いて下さった、有難う、ってお祝いします。そして信仰の言葉で心一つになり神の家族になります。

そして併せて思い起こす聖書の箇所の一つが、最初のペンテコステの日に、イエス様の弟子のペトロさんが読んだヨエル書の言葉です。神様のお言葉です。その後、私は全ての人に我が霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。聖霊を注いでもらうと、老人は夢を見、若者は幻を見る。どんな夢・幻かというと、世界中の人が「イエス様は主なる神様だ」と言ってお祝いして、世界中の人の信仰の心が一つになる、という夢や幻です。希望と言ってもいい。
それで今日は、少しでも多くの方たちと一緒にお祝いしたいなと教会の私たちは思い、この春から、家族友だち礼拝を始めました。今日はこの家族友だち礼拝に、皆さんよくおいで下さいました。

そして今日は午後、イチゴ狩りに行きます。たまたまペンテコステのお祝いの日と重なりました。今日お家に帰ったら、イチゴのショートケーキを作ってペンテコステのお祝い出来たらいいね。
ここに幾つか、苗を持ってきました。(一つひとつ見せながら)イチゴの苗、どれだか分かりますか? 残念、ここにはイチゴの苗はありません。だってイチゴだったらもう実がなっていないといけない時期ですからね。
これは? 実がなればはっきり分かるのですけど…。(会衆の園児が答えてくれて)、そうです、きゅうりの苗。これは? ピーマンの苗、これは? トマトの苗です。
この苗を、プランターや地面に植えて、水をやります。そしてお日様の光を暖かく受けて育ってくると、キュウリがなってきます。ピーマンがなってきます。トマトの実がなってきます。今日いただくイチゴもそうやって実がなったはずです。

今日、いちごの農園に行ったら一つ考えてみましょう。農家の人は、種を蒔いて、苗にして、それを地面やプランターに植えます。その時、農家の人が植える種には、実がなっていますか? 苗を植えるとき、実がなっていますか? まだ実はなっていません。まだ実がなっていないのに、種を蒔いたり苗を植えたりします。実がちゃんなっているのを植えるのだったら、安心で、やる気が出るのではないですか~? 実がなっていないのに面倒で大変なのに、何故植える? それは、いずれ実がなるという幻や夢、希望を抱いているからです。この苗を見ながら、「実がなる、実がなる、実がなる」と見えない実の幻を見続ける。この夢や幻があるから植える。地面に植え、水をやり、日の光があたるようにします。実がなっている幻を抱きながらです。

皆さんも、言ってみれば、苗みたいなものです。実は今日皆さんは、丁度、地面のような教会に今集まり、丁度、水を撒いてもらうように聖書の言葉を受け、丁度、日の光を浴びるように聖霊の息吹を戴く。するとイエス様は主なる神様です、と信じて告白する信仰の実がなって来ます。信仰の実がなって来たなと思ったら、洗礼を受けて、聖餐式に与ることも出来るようになります。そして最初の信仰の実がなると、更にこうなります。霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテヤ五・二二)。信仰の実はもっともっと豊かになります。
今日、イチゴ狩りをして、イチゴを手にしたら、自分も信仰の実がなるのだなと思いながら、イチゴを味わって欲しいと思います。そして教会の私たちは、皆さんのことを「信仰の実がなる、信仰の実がなる、信仰の実がなるよ」と、夢と幻、希望の内に見出していますからね。

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