詩編一四五・一四~一六
ルカ 一一・ 九~一三
教会学校では今、主の祈りを順々に学んでいます。今日は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の祈りです。イエス様が仰いました。空の鳥をよく見なさい意。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなた方は鳥よりも価値ある者ではないか。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。ましてあなた方には尚更のことではないか(マタイ六・二六、三〇)です。神様は尚更、私たちを養い 装い 生かして下さる。この祈りは、私たちを本当に生かす日用の糧、食物を求める祈りです。
ご飯をいただくときにお祈りをして皆さんは何て言いますか。「いただきます」と言います。ご飯食べられて有り難うございます、と神様に感謝をささげます。 それから、お肉を食べます。お魚を食べます。お野菜も食べます。みんな生き物が自分の生命をささげてくれたので、私たちはそれをいただくことが出来ます。だから動物さん、お魚さん有り難う。 それからおいしいいご飯を作ってくれて、お母さん有り難う。 色々な意味を込めて有り難うと感謝して「いただきます」ですね。 そう言えば、今日は五月第二週、母の日です。「お母さん有り難う」の母の日の思いをあとで皆さん、お母さんに言ってみて下さい。なんで有り難うなのかな? ご飯作ってくれて有り難う。洋服を洗濯してくれて有り難う。お家を掃除してくれて有り難う。色々あります。何々してくれるから有り難う。でも、それだけかな? 先生のお母さんは、晩年は病気で寝たきりになりました。何も出来なくなりました。立って歩くことも出来ない。着替えも手伝ってもらわなければならなくなりました。それで、何もしてくれなくなるから、有り難うではなくなるのでしょうか? 私の母はある時、大人の私に向かって言いました。「恭ちゃん、ちゃんとご飯食べた?」。母というのは自分のことより子どものこと、気にかけてくれているんですね。だから母は母だから有り難うなんです。
天の父なる神様もいつも私たちのことを気にしてくれています。詩編の言葉、主は倒れようとする人を一人ひとり支え、うずくまっている人を起こして下さいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物を下さいます。全て命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させて下さいます(詩編一四五・一四~一六)。 私たちは、神様に向かって目を注いで待ち望んでいい。イエス様も仰いました。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる(ルカ一一・九)。でもこれは、私たちが求めるから与えられるのでしょうか? まず父なる神様が私たち一人ひとりを気にかけて下さっているからです。あなた方の中に魚を欲しがる子どもに蛇を与える父親がいるだろうか。卵を欲しがるのにさそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなた方は自分の子どもには良い物を与えることを知っている。親は子どもに気をかけている。だから良い物を与える。神様が私たちに愛を注いでおられます。だから今日もご飯をいただけて有り難うと感謝します。そのことを思うと食卓が豊かになります。家族と一緒に食事します。友だちと一緒に食事することもあります。もし、その時喧嘩していて、ご飯有り難うの気持ちがなくなると、おいしいご飯のはずなのに、ただの餌みたいになってしまいます。食卓の不思議な所です。 実は、主イエスが見えないお客様。「キリストは我が家の主、食卓の見えざる賓客」なのですね。
神様が与えて下さるのはご飯だけではありません。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる(申命記八・三)。食事と一緒にみ言葉の祝福を下さいます。「イエス様、語りかけて下さい。 『あなたの罪は赦された。祝福があるように』、そのようにみ言葉を下さい」。 主の祈りを祈る時、み言葉を祈り求めましょう。それから、人は年をとると身体が、ご飯が要らなくなる時が来ます。でも不思議なことにイエス様を思い起こせるとお心は安心です。そして、まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる(ルカ一一・一三)とあります。 主の祈りの時に聖霊を祈り求めます。聖霊の導きを与えられて今日も教会に来ることが出来ます。聖霊によってこそ「イエスは主である」と信仰を告白出来ます。沢山の日用の糧で養って下さって、有り難う。