日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年10月10日 説教:森田恭一郎牧師

「ふしぎだね。でもホントなんだ」

レビ記五・一
マルコ九・二~一三

ある日のことです。イエス様は高い山に登られました。三人のお弟子さんも一緒です。ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた(マルコ九・二)のですが、お弟子さんたちは、とっても不思議な事を見てしまいました。いつも一緒にいて下さるイエス様が、いつもと違います。

 

目の前で、イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった(同九・三)。どのクリーニング屋さんでも出来ない位に真っ白になりました。まるで天使みたいに、いや、きっと神様はこんなふうに輝いて……、とにかくこの世のお方とは思えないほどです。

不思議なことがまだありました。二つ目です。見ていると、エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた(同九・四)。エリヤは預言者の代表者、モーセは律法の代表者、二人合わせて旧約全体を表す有名な人です。何をお話しているのか、イエス様のことを何がしかお祝いして喜んでいる様子です。ペトロは訳の分からないまま、エリヤもモーセもイエス様もいつまでもずっといて欲しいと「先生」と呼びかけ、「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう」(同九・五)。

不思議なことがまだ続きます。その三つ目、モクモクと雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これは私の愛する子。これに聞け」(同九・七)。神様のお声です。イエス様はただの先生ではありません。この方はどなた? 神様の「私の愛する子」、神様の子、神様です。

弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた(同九・八)。あれっ? ここにはイエス様だけ。いつものお姿のイエス様です。今さっき、見ていたのは気のせい? いや、確かに「これに聞け」と声を聞きました。

そして今度は、イエス様のお言葉を聞くと、それがまた不思議。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」(同九・九)。「死者の中から」? 「復活する」? いくら考えても話し合っても論じ合っても、弟子たちには何のことか全然分かりません。不思議なこと四つ目です。

イエス様が答えて下さいました。「人の子は苦しみを重ねて、辱めを受けると聖書に書いてある」(同九・一二)。ただ死んでしまうのではない、苦しみを受けて死んでしまわれる。何も悪いことしておられないのにどうして? 不思議なこと、五つ目です。後で、十字架のことだと知りました。

しかも、そのことが聖書に書いてあるだなんて…。あの旧約のエリヤとモーセがイエス様と語り合っていたのは十字架や復活のことだったの?  これも不思議。六つ目。

 

この日、不思議なことが六つも。今まで全く見たことなかったこと、これまで他の誰も知らなかったことです。だからその後、三人のお弟子さんたちにしてみれば「ねぇ、ねぇ、あのね、実はね。あの高山に登ったときにね……」と言いたい気持ちが溢れてくるでしょうね。けれど、イエス様が「復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と言われた。語り出す時はまだ来ていない。それで、心の中にだけ留めてグッとこらえて黙っていました……。

それなら黙っていたのはいつまでか、というと「復活するまで」。イエス様が復活された後は話していい。事実、聖霊の導きを受けて、弟子たちは語り始めました。思えば、この山上での出来事を、今日、私たちが知っているのは、三人のお弟子さんたちが語ってくれたからです。

 

しかもただ語ったのではありません。証言したのです。証言というのは、見たり、聞いたりした事実を証言(レビ記五・一)することです。話をしても周囲の人たちは「イエスが天使のように輝いただなんて、まして復活しただなんて、考えられない、嘘だろう」と言い返してくるかも知れません。それで証言する意味がある。「頭の中で考えて分からなくても、この目で見たんだ、この耳で聞いたんだ。本当なんだ」と自信を以て言える。これが証言の強さです。真実さです。

ペトロは証言者として手紙にも書いています。

私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いた訳ではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これは私の愛する子。私の心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです(Ⅱペトロ一・一六~一八)。ペトロは「作り話を用いた訳ではありません」と自信を以て証言します。また「私たちは」と言って、二人、三人が一緒になり、イエス様がその中にいて下さる中で証言したのです。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ一八・二〇)とイエス様が言われた通りです。

 

教会は、このような二人、三人、それ以上の人たちが共に証言する者たちの集いです。私たちは、あのペトロ、ヤコブ、ヨハネのように直接には、見聞きしていません。でも私たちは、あのお弟子さんたちが直接見聞きした証言の文章、新約聖書の解き明かしを聞いて信じています。イエス様が、私たちの考えを遙かに越えて、恵みと不思議に満ちた神の御子、救い主であると。そしてこのイエス様のことを分かち合い、他の人たちにも伝えます。

 

今日は神学校日、伝道献身者奨励日です。ペトロたちの証言を今に伝えるために、聖書の解き明かしをする人たちが必要です。この人たちを養成する神学校を覚えて祈ります。また皆さんの中からも伝道者に献身する人が備えられることを願って祈ります。