イザヤ六四・五~八
エフェソ三・一四~二一
『A・D・ヘールに学ぶ』には祈りに応えて御業が進む話が沢山載っています。ウィルミナ女学院の校舎が火事で焼失し再建して行くときのことを中山昇はこう記しています。神様は人間の限界を超えた所で働いて下さる。どんなにか多くの、そして真剣な祈りが捧げられたことだろう (一一六頁)。今日は祈りについて思いを深めたい。
私たちは、天にまします我らの父よ、と神様を父と呼ぶことが出来ます。それは思えば、決して当たり前のことではありません。神様を父と呼べるのは、本来は御子イエス・キリストだけだからです。
今日のイザヤ書は旧約聖書で神を父と呼ぶ数少ない箇所の内の一つです。万軍の主よ、と力強い主なる神様と呼びかけるのではなく、父よと呼びかけるのは、イスラエルが国を失ったり、エルサレムに帰還した後もいろんな壁にぶつかったりして、信仰を失いかけている時です。私たちは皆、汚れた者となり、正しい業も全て汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れ葉のようになり、私たちの悪は風のように、私たちを運び去った。あなたの皆を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない (すがるのは奮い立って出来る事なのですね)。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの悪の故に、力を奪われた (イザヤ六四・五~六)。神様に向かってすがる事も出来なくなるほどに御顔が見えなくなり信仰の気力も生きる力も失せてしまった。その様な中でイザヤは奮い立ってすがっている。しかし、主よ、あなたは私たちの父。あなたの民である私たち全てに目を留めて下さるように。誇れる生き方も信仰もない。憐れみにすがるしかない。それは丁度、幼子が親に向かって「抱っこ」と言って甘えるようなものです。その時、万軍の主に向かって「抱っこ」とは言えない。父であるから「抱っこ」と言える。
今日は新約聖書はパウロの祈りの言葉です (エフェソ三・一四~)。こういう訳で、私は御父の前に跪いて祈ります。どうか御父が……と祈り始めています。この一六節以下の祈りの言葉、私も本当に支えられたことがあります。二十年位前のこと以前の教会で、私自身が教会のある状況、課題の中で、気持ちの上で壁に囲まれているような思いになったことがありました。その時、この聖句に触れました。夜、未明の時間でした。この聖句はパウロの人間の祈りの言葉ですが、聖霊なる神様がこの自分のために祈って下さっている祈りのように響いてきました。向こう側から降り注いできたこの祈りの言葉に包まれ、お前は進んで行くのだ、と支えられ勇気づけられました。一六節以下です。説明はしません。皆さんもこの祈りの言葉そのものを味わって戴きたく思います。
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなた方が全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされるように。
私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすること全てを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が代々限りなくありますように。アーメン」。
福音書に、十二年間も出血の止まらない女性の話があります(マルコ五・二五~)。主イエスの内から力をいた女性の話です。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。正に、すがるような思いで奮い立って主イエスの後ろまでやって来ました。
すると、すぐ出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた。良かったですね。でもこの後、彼女が願った以上のことが起こった。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。主イエスは、私の服に勝手に触れたのは誰だと怒っておられるのではない。御父が、救うようにと今ここにいるようにして下さった人がいる、その大切な人はどこにいるのか、と見回されたのです。それで、女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。「私はただ病気が治れば良いと思って、すがるような思いであなた様の後ろに来ました。そのような私が神様の御心の中に置いて戴いている。救われるべき大切な人はどこにいるのか、とあなた様の眼差しに捉えられました。私が求めた以上に導かれました」。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。
この女性は思いがけない恵みと平安を戴きました。まさに、エフェソ書にある通り私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすること全てを、はるかに超えて叶える出来事が起こりました。そしてその出来事を叶えることのおできになる方に出会う出来事が起こりました。
本日礼拝後に、教会の決算総会を開きます。昨年戴いた恵みを思い起こしつつ、今年度、一二〇周年を迎え、次に向かって安心して行きなさい、と主イエスからのお言葉を戴いています。皆さん、祈って下さい。皆さん御自身の歩み、そして教会の歩み、地域の営みの上に、人間の思いや限界を越えて、御心が成っていきますように。そのために教会がこれからこの地域社会に神様の栄光を現すべく、地域社会の信頼に応えて用いられますようにお祈り下さい。