Ⅰペトロ一・八~九
今日の招きの言葉に、見えないものに目を注ぐ(Ⅱコリント四・一八)とありました。皆さん、信じるとはこういうことだ、とこの聖句から味わいます。信じるとは、見えないものに目を注ぐことです。今日の聖句で言うと、今見なくても信じており(Ⅰペトロ一・八)ということで、言い換えて魂の救いを受けている(Ⅰペトロ一・九)ということです。
因みに、見えないものを見る、これを難しい用語で被認知能力といいます。これを幼少期にしっかり育てることが、親の務め、保育園、こども園の務めです。そこでの見えないものとは、相手の気持ちとか親の愛が分かる能力です。相手の気持ちは見えません。親の愛もそのままでは見えません。でもお母さんがギュッと抱っこしてくれるとお母さんは私のこと愛してくれている、大切にしてくれている、忘れないでいてくれる、と体験します。その抱っこは親の愛を形にして見せてくれている訳です。愛は見えない。でも親の愛を信じる。これが乳幼児期に絶対必要な保育です。
神様の愛も見えません。その見えない神様の愛に目を注ぐ。神様は見えないし、今の私たちはキリストを見たこともありません。そのお姿を信じるて目を注ぎます。キリストにギュッと抱っこしてもらいます。それを永遠の命と言います。またその時、既に魂の救いを受けています。
キリストは私たちをギュッとしていて下さることに目を注ぐ。それで私たちの方も、キリストにしてもらうままに抱っこしてもらいます。たまに子どもは、親が抱っこしようと思うと、嫌がることがあって、素直に抱っこしてもらおうとしないことがあります。親の愛より、何か他のことに気を取られているのでしょうか。抱っこさせてくれません。そのまま抱っこされたらいいのにね。
今日の聖書、キリストを見たことがないのに愛しとあります。これは実は、命令形です。キリストを見たことがないけれど愛しなさい。愛そうね、という力強い勧めです。それから素晴らしい喜びに満ち溢れています。これも命令形で、喜びに満ち溢れようねと力強く進めています。
中学高校受験に合格した人のことを思い起こしてみましょう。受験に合格した。それで、これから中高生として生きて行こうね。そう勧められるし、自分自身も、そうやって生きて行こうと思う。中学に合格したらいつまでも小学生でいようなんて思う人はいません。高校に合格したらいつまでも中学生でいようなんて思う人はいません。気持ちは前に向かって進み始めます。
信仰も同じ。キリストがギュッとして下さる。その見えないキリストに目を注ぎ信じたら、こちらもキリストを愛していこう、喜びに満ち溢れていこうと心は躍るわけです。
それは、キリストが素晴らしい喜びに満ち溢れているからです。そのとき、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた(ルカ一〇・二一)。何のことで喜びに溢れたのかと言いますと、その前の所にある通りです。あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。このことをキリストがまず喜びに満ち溢れておられます。
「人は二度死ぬ」って聞いたことありますか。一度目は、脳死になり心臓が止まる普通の体の死のことです。二度目は、その人のことを心に覚えている人が死んでしまうと、二度目の死になります。震災で多くの方々が亡くなりました。一度目の死です。でも遺された人たちの心に、生きています。亡くなった方のお姿、お名前を覚えています。でも遺された方たちもみんないずれ亡くなられると、最初の人たちも、二度目の死を迎えます。
でもそこで……。キリストは忘れることはない。キリストも死んだら、みんなことを覚えている人は居なくなってしまうのでしょうか。キリストは十字架で亡くなられましたが、三日目に甦られました。それでお忘れになることはありません。人は三度は死なない! そして言われました。あなた方の名が天に書き記されている、と。それをキリスト御自身が喜んでおられます。
この天の事実と、キリストの喜びは、私たちには見えません。でも目を注ぎ、見えなくても信じます。今、魂の救いを受けています。それだから、キリストを愛し、喜びに満ち溢れて生きて行こう、ペトロは勧めています。