日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年11月21日 説教:森田恭一郎牧師

「いつまで? なお、しばらく」

出エジプト記一四・一三~一四
ヨハネ黙示録 六・一~一七

本日は、教会の暦では終末主日になります。今週の土曜日がいわば大晦日、次週から待降節に入り新しい一回りが始まります。暦としては毎年同じ事の繰り返しですが、私たちはただ繰り返しているのではない。行く年来る年、この一年授かった恵みを振り返り「行く年」を毎年異なった思いで、螺旋階段のように一年の経験の蓄積を経て、一回りして一段上に上がっていることを確認します。今年も一年の歩みを振り返りつつ、悔い改めと感謝を以て「来る年」を迎えたいと思う所です。

さて例年、終末主日にはヨハネ黙示録から御言葉を味わっております。黙示録というと、何か怖いイメージを抱いてしまいがちです。終末には御心に適わない者はこの世界もろとも滅ぼされるというような……。今日は六章を読みましたが、その終わりにも、神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。誰がそれに耐えられるであろうか(黙示録六・一七)とあって、自分なんか耐えられないと益々怖くなってしまいかねません。今日の六章も、全体の中での位置づけを確認しながら、その意味を受け取ることが必要です。                              六章以下はキリストである小羊が巻物の封印を開く事を記しています。八章からは天使がラッパを吹きます。両者はセットになって記してあるのですが、小羊が封印を開き、天使がラッパを吹くと様々な災いが描写される。それを読むと何だか怖くなるような、それで黙示録はそのように一方では悪は滅ぼされるという希望を語り、他方警告を発するような仕方で悔い改めるように人々に求めている訳です。が、この一連の箇所の結論は、九章の終わりの所です。これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも聞くことも、歩くことも出来ないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、淫らな行い、盗みを悔い改めなかった(黙示録九・二〇~二一)。つまり審判の警告や懲らしめでは、人々は悔い改めて信仰に至るようにはならないということです。六章から九章の所で黙示録はこのことを言いたい。ですから一連のこの箇所を読むときには滅びや災いのことにのみこだわり振り回されないでいい。                         そこで明らかになる課題があります。それでは人々は何によって悔い改めて信仰に至るのか。これも結論を先に言いますと、神の救いの御業を見、受けとめる。そして証をするということです。それで今日は、小羊が第五の封印を開いたときのことを中心に思いを深めます。           小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちが立てた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか」(黙示録六・九~)。             「主よ、いつまでなのですか」。ここに聖書全体が訴えている問いかけがあります。悪がはびこる、不条理が起こる、主の御名がたたえられない、これはいつまでなのか。神がおられるなら、悪に復讐し悪を滅ぼし御国の支配を現して欲しい……。これに対する答えが続きます。すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。この「静かに」の言葉から思い起こす旧約聖書の聖句を二つ。                         一つ目は出エジプト記からです。行く手には海があって前には進めず、後ろからはエジプト軍が迫ってくる。もう逃げられない、絶体絶命だという状況の中でモーセは「静かにしていなさい」と言う。静かに、とはどういうことなのだろうか。「あなたたちは今日エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト記一四・一三~一四)。これは文句も言わずにただ静かにしているということではありません。恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい、主の御業をしっかりと見るということです。主がエジプト軍と戦って、あなた方を救って下さるから、主の御業を見なさい。     二つ目はイザヤ書からです。「お前たちは立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ三〇・一五)。この箇所についてある牧師はこう記しております。「力を振り回している所に力がある訳ではありません。安らかに神に信頼している所で力は与えられるのです。壊す力ではなく造り出す力こそ大切なのです」。いつまでなのですか、今どうすれば良いのですか、の問いに対して示された御心は、復讐(=リヴェンジ)。ではない、造り出すようにと悔い改めて回復(=レジリエンス)することです。それが「静かに」ということです。                         黙示録に戻りますが、それにしても、殉教して殺されていく兄弟たちの数が満ちるまで静かに待つ必要があるのだろうか。何のために待つのか。待って出エジプト記のように主の救いの御業が見えてくるのだろうか。イザヤ書のように、人々が皆、造り出されてきて回復するだろうか。     静かに待つのは、悔い改めを待っておられるのです。ペトロ書にこうあります。主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです(Ⅱペトロ三・九)。人々が悔い改めるのに、警告や災いの脅威によってではなく、罪を贖い罪を赦す小羊の姿によってです。もっとも異教徒たちは、十字架の主イエスを見てもそれが救いの御業だとは分かりません。彼らが見て分かるのは信仰者たちの殉教していく姿でした。黙示録の記された時代はまだ殉教者が生じた時代です。神の言葉と自分たちが立てた証のために殺された人々の魂(黙示録六・九)を身近に想い起こすことが日常であった時代です。命をかけて主の御業を証していくことの意味を、黙示録は深く黙想しています。彼らの死が犬死にであるはずはない、と。そして歴史の事実として,キリスト教徒を迫害していたローマ帝国がキリスト教公認に至るのは、迫害したローマの人たちを恨むことなく喜んで天の国へと旅だっていった殉教者たちの姿を見て、でありました。殉教者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つ。その間、教会と信仰者たちは、キリストを証し続けて生きるのでした。そして悔い改める人々の数が満ちることを待ち望みます。                            今日幸いなことに、私たちが当時のような殉教を迫られることはありません。けれども、自分が信仰を与えられて良かったと喜びを証することは、今日でも求められていることです。このことをないがしろにしてはいけません。日曜日には礼拝に集い、出来得る限り、信仰によって生きる喜びを表現して歩んでいきたい。            それを求めておられるのはキリストであることは言うまでもありません。でもそれだけではありません。地域の人たちも求めています。短期間ではありましたが、ご飯やデイ「赤い屋根」が、子どもたちを初めとする居場所の環境の不十分な人たちに、ご飯を提供することを試みたとき、協力して下さった社会福祉協議会の方が、このような地域を覚えての活動を教会に期待していると言われました。証という言い方ではありませんでしたが、教会と私たち信仰者の姿に目を向けて下さっている訳です。それなら、私たちが思っている以上に、地域の人たちはキリストへと目を向けるまで、あと一歩の所におられるのかも知れません。     終末の日について主イエスはこう言われました。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マルコ一三・二六)。キリストは全ての人を選び出し、四方から呼び集められるようになるまで、教会の私たちに期待して待っておられます。